小田氏治
おだうじはる
概要
小田政治の子。1534年生まれ。先祖には「鎌倉殿の13人」の13人の中の一人・八田知家がいる。
常陸国南部を領し、現在のつくば市にあった小田城を本拠とした。
戦国最強とも言える織田信長とたまたま同じ読みの名字だったこともあり、「戦国最弱」と言われることもある。
小田城は関東平野の中央近くにあり、北西には上杉、北東には佐竹、南西には北条、そして結城と周囲を強大な勢力に取り囲まれていた。そのため戦では何度も負け、9度も小田城を奪われてしまった。
しかし、「9度も奪われた」ということは少なくとも8度は取り返したということでもある。
小田城は平地にあり中世の武士の居館の様相をそのままにしていたため防御が脆弱で、攻められやすく取り返すのも容易だった。
この繰り返しの奪還劇では和議の破棄、夜襲、北条家への友軍要請等々取り返すためなら何だって駆使するアグレッシブさの持ち主でもある。
加えて家臣の信頼も厚かったようで、これだけ何度も城を落とされても滅亡まで追いやられることが無く、落とされた後に佐竹家に降っていた家臣も説得をすればすぐ戻ってくるくらいだったらしい。
最後に城を奪われてからは、城を奪った佐竹によって防御機能を備えた砦に改造されてしまい、9度目の奪還は叶わなかった。
しかもこの奪還しようとした時期が豊臣秀吉による小田原征伐の最中で、小田原征伐で北条氏が降伏したため北条方だった氏治は、豊臣方に参陣しなかったことも合わせて罰則として小田城どころか領地全てを失い、大名としての小田家は滅亡した。
大名としては滅亡してしまったが、その後秀吉に謝罪をして許され、結城秀康の客分として石高を与えられたことで家は存続することができている。その約10年後に逝去。何度も負けながらも天寿を全うすることができた稀有な戦国大名である。