伊賀氏の変
いがしのへん
北条義時の息子たち
伊賀氏の変を語るうえで重要となるのが、義時の息子たちとそれを取り巻く状況である。
以下、義時の息子たちについて掲載。
- 長男:北条泰時…寿永2年(1183年)~仁治3年6月15日(1242年7月14日)
後の鎌倉幕府第3代執権、御成敗式目を定めたことで知られる。母の名は伝わっていない。
元服時は頼朝の「頼」の片諱をいただき「頼時」を名乗っていた。
父・義時を継ぎ、代々執権を世襲する得宗家の権力を盤石なものとする。
- 次男:北条朝時…建久4年(1193年)~寛元3年4月6日(1245年5月3日)
母は義時の正室・姫の前。有力御家人・比企能員の一族にあたる比企朝宗の娘である。
祖父・時政にかわいがられたうえ、元服にあたって鎌倉幕府第3代将軍・源実朝から「朝」が与えられて「朝時」を名乗り、後に祖父が住んだ名越の邸宅を与えられる。相続した屋敷の名前から「名越流」を名乗り祖となる。。
- 三男:北条重時:建久9年6月6日(1198年7月11日)~弘長元年11月3日(1261年11月26日)
母は義時の正室・姫の前。有力御家人・比企能員の一族にあたる比企朝宗の娘である。
異母兄・泰時と良好な関係を築き要職を歴任、六波羅探題北方、第5代執権・北条時頼の要請により連署に就任する。極楽寺に隠居したため「極楽寺殿」と呼ばれる。極楽寺流の祖。
- 四男:北条有時…正治2年5月25日(1200年7月7日)~文永7年3月1日(1270年3月23日)
母は伊佐朝政の娘。義時の四男として生まれるが六男のあつかいを受けて”陸奥六郎”を名乗り、席次は正室・伊賀氏の子である政村、実泰の下位とされている。伊具流の祖。
- 五男:北条政村…元久2年6月22日(1205年7月10日)~文永10年5月27日(1273年6月13日)
母は義時の継室・伊賀の方。伊賀の方二階堂行政の孫にあたるため、四男の待遇を受ける。
兄・重時の引退後、連署に就任し、第6代執権・北条長時の出家後、若年の得宗・北条時宗に代わり中継ぎとして執権に就任、時宗の執権就任にあたって再び連署に就任した。政村流の祖。
- 六男:北条実泰…祥元2年(1208年)~弘長3年9月26日(1263年10月29日)
母は義時の継室・伊賀の方。伊賀の方は二階堂行政の孫にあたるため、五男の待遇を受ける。
金沢文庫を創設した北条実時の父、金沢流の祖。
このうち、義時の後継者として考えられたのは長男・泰時、次男・朝時、五男・政村と考えられている。とくに比企一族の血を引く朝時は前述のとおり、主君・実朝から「朝」の字を与えられただけなく祖父・時政から邸宅を受け継いだことにより、自身が北条家の家督を継ぐものと思った朝時の一族は、義時死後も兄・泰時が惣領を継いだ得宗家に対する反目が長く続いた。
実際、一説では比企と北条の同盟の象徴として一時期朝時が北条の家督を継ぐ計画があったというが、いずれにせよ比企の乱による北条と比企の決裂、および比企氏の滅亡と生母・姫の前の離縁により朝時に北条宗家の目は無くなってしまった。
一方の泰時は生まれこそ正室の子ではなく、幕府が開かれた当初は父・義時自身も北条相続の予定はなく(当時の正室・牧の方の長男・政範が嫡男扱いだったため)江間姓を名乗っていたこともあり江間太郎頼時(泰時)を名乗っていた。しかし、畠山重忠の乱直前の政範の急死、および続く牧氏の変による祖父・時政の追放を受け義時が北条宗家の家督を継いだため、泰時が繰り上げで後継者となったと考えられる。
伊賀氏事件勃発
元仁元年6月13日(1224年7月1日)、鎌倉幕府第2代執権・北条義時が急な病で亡くなった。
直後に北条家の家督をだれが継ぐかが問題となり、義時の継室・伊賀の方は自身の息子である政村に家督を継がせようと、兄・光宗ら伊賀一族と画策、発覚して北条政子、大江広元らの裁定により泰時が執権に就任、伊賀の方は伊豆北条に配流・幽閉となった。
この事件に関与した光宗ら伊賀一族も所領を没収された末追放されたが政村・実泰兄弟は処罰を受けることはなく、同年12月には伊賀の方危篤が記録されており、まもなく死去したと思われる。
また翌嘉禄元年(1225年)、伊賀氏の変の裁定にあたった大江広元、北条政子が相次いで死去、幕府は追放されていた伊賀光宗の所領を回復し、評定衆に復帰させた。
これらの事件の経緯から「伊賀氏の変」は北条政子、大江広元らが仕組んだ冤罪ではないかとの説が提起されている。
なお許された政村、実泰兄弟は第3代執権となった長兄・泰時に仕え、その後の幕政でも重要な役職を占めた。のみならず、先述のとおり政村は中継ぎとはいえ時宗の前の第7代執権に就任している。伊賀氏の変が政子・広元に仕組まれた陰謀だったのか、政村に執権就任の野心があったかは不明ではあるが、運命の悪戯といえるかもしれない。
また、実態がどうであれ「実弟とはいえ謀反の疑いのある者を不問として処罰を下さなかった」という点で泰時の慈悲深さ・名君っぷりを示すエピソードとして紹介されることも多い。