ピクシブ百科事典は2023年6月13日付でプライバシーポリシーを改定しました。改訂履歴

ボロジノ級戦艦の編集履歴

2023-01-16 09:18:09 バージョン

ボロジノ級戦艦

ぼろじのきゅうせんかん

ロシア帝国海軍が建造した戦艦の艦級

→ 詳細は「wikipedia:ボロジノ級戦艦」へ


概要

艦級名の「ボロジノ」はモスクワ州西部のモジャイスキー地区にある村で、ナポレオン戦争の古戦場。

20世紀初頭、太平洋艦隊に配備されていたロシア帝国海軍の戦艦は12インチ砲を搭載したペトロパブロフスク級戦艦三隻を除けば、日本海軍にはこれで充分とされたより砲撃力の劣る10インチ砲のペレスヴェート級戦艦二隻であった。

しかし、大日本帝国海軍が相次いで12インチ砲艦を購入し増強したため、対抗上、ロシアもアメリカからレトヴィザン、フランスからツェサレーヴィチの12インチ砲戦艦を購入した。

両艦は太平洋艦隊最優秀艦と評されたがレトヴィザンは機関に問題があり、それより評価されたツェサレーヴィチはライセンス生産の許可を得たため、これをベースに当時のロシア国内の工業レベルに応じて装甲を薄くするなどの劣化コピー版のボロジノ級戦艦が設計・建造された。

当時の戦艦としては一流に属するものではあったが、設計ミスにより予定より排水量が多くなりトップヘビーになるなど全体的には失敗作となった。

また、喫水の関係でスエズ運河が通れなかったため、これがバルチック艦隊が遥々希望峰周りで遠征をしなければならない原因にもなった(※)


姉妹艦の四隻はジノヴィー・ペトロヴィチ・ロジェストヴェンスキー中将率いる第二太平洋艦隊(バルチック艦隊)に編入されたが、1905年の日本海海戦によってその三隻が失われ、一隻が捕獲されている。

また五番艦スラヴァは第一次世界大戦で失われた。

ちなみに、日本海海戦に出撃した4隻には連合艦隊の水兵から艦影識別のための変なあだ名が付けられたことでも有名。


※これ以外にも日英同盟による日本への協力や、ドッガーバンク事件(イギリスの漁船団をバルチック艦隊が日本の水雷艇と誤認して砲撃、多数の死者を出した事件)によるイギリスの外交圧力もあったとされるが、旧式艦のみで構成される第三太平洋艦隊はスエズ運河を通って合流しているので、やはり喫水問題も重要な要因だろう。


同型艦

ボロジノ

1904年竣工。1905年、日本海海戦で沈没。

艦名はナポレオン戦争においてナポレオン率いる大陸軍とロシア陸軍が大規模な戦闘を繰り広げた「ボロジノの戦い」に由来。あの大陸軍相手に一歩の退かない戦いをしたことから、ロシアにおいては愛国心の象徴となっている戦いである。

日本海海戦においては旗艦スワロフ、その落伍後に先導艦となったアレクサンドル3世が相次いで航行不能になったのを受け戦列の先頭に出た。その後、日本側の観戦武官からも「この艦の堅忍不抜と勇気は例の無いものである」と称賛されるほどの奮闘ぶりを見せつけるも、19時20分に連合艦隊が日没に伴う視界不良による射撃中止を決断した直後、突如2回の大爆発を起こして轟沈。原因は諸説あるが、砲撃による火災が火薬庫への引火したという説が有力。

連合艦隊でのあだ名は「ボロでろ」。


インペラートル・アレクサンドル3世

1903年竣工。1905年、日本海海戦で沈没。

艦名は時の皇帝ニコライ2世の父で先代ロシア皇帝である「アレクサンドル3世」に由来。

日本海海戦では集中砲火により列外に落伍した旗艦スワロフの異変を察知しすかさず先頭に立つも、即座に連合艦隊に滅多撃ちにされわずか15分で落伍。その後一度はなんとか復帰するも再び砲撃を受け落伍し、ボロジノよりも少し早い19時に損傷部分からの浸水により転覆・沈没。

連合艦隊でのあだ名は「呆れ三太」。


オリョール

1904年竣工。1905年、日本海軍に編入(戦艦石見)。媒体によっては「アリョール」とも。

艦名はロシア語の「鷲」に由来。単なる一般名詞ではなく、「鷲」はロシア皇帝や王室の権威を表すシンボルでもあった。ちなみに同名の病院船もいた。

日本海海戦では初戦で連合艦隊からの砲撃で備砲のほとんどを破壊されるという壊滅的な打撃を被るも、姉妹艦の中で唯一自立航行が可能だったこともあり、ネボガトフ少将指揮の残存艦隊に参加。翌日の連合艦隊による包囲を見て観念したネボガトフの降伏により、連合艦隊に鹵獲された。1922年に除籍され、1924年に実験標的艦として沈没処分が下された。

なお、乗り込んでいた水兵ノビコフ=プリボイと造船将校ウラジミール・コスチェンコがそれぞれ日本海海戦とバルチック艦隊に関する書籍を出版していることでも有名。

連合艦隊でのあだ名は「アリ寄る」。


クニャージ・スヴォーロフ

1904年竣工。バルチック艦隊総旗艦。通称スワロフ。1905年、日本海海戦で沈没。

艦名は、第一次・第二次露土戦争などで活躍し「常勝の将軍」と讃えられた大元帥アレクサンドル・スヴォーロフに由来する。ピクシブ大百科ではリアルチートの一人として知られている人物の一人。ちなみに「クニャージ」は公爵の意味。

日本海海戦ではバルチック艦隊の一番先頭に位置しており、連合艦隊からの一斉砲撃の目標にされた。その結果甚大な被害を被り、すぐに戦列から落伍。その後夜間の魚雷攻撃により沈没。

連合艦隊でのあだ名は「国オヤジ、座ろう」。


スラヴァ

1905年竣工。1917年、第一次世界大戦でドイツ海軍と砲撃戦の末、自沈。

艦名はロシア語で「光栄」。起工がスワロフより一年以上遅れたため、ボロジノ級5隻の中で唯一日露戦争に参加していない。それどころか竣工した1905年6月には日本海海戦はすでに終わっており、姉妹艦も鹵獲されたオリョールを除いて全滅していた。さらに、その4ヶ月後にはイギリスでドレッドノートの建造が開始されたため一気に時代遅れとなってしまった悲劇の艦である。

日露戦争後ロシア帝国に返還された元旅順艦隊旗艦ツェサレーヴィチと共に数少ない「バルチック艦隊」として活動。戦後に行われた練習航海においては停泊先のイタリア・メッシーナで巨大地震に遭遇したことから現地の救護活動に参加。第一次世界大戦においてはバルト海侵入を試みるドイツ海軍と何度か戦い、最終的に第二次リガ湾攻防戦にてドイツ海軍の攻撃に果敢に応戦するも砲塔が故障したことがきっかけで押され、最終的に水深の浅いムフ水道に追い詰めされたことで鹵獲防止のため水道入り口に座礁させた上で自沈措置がとられた。ちなみに同じく日露戦争の生き残りであるツェサレーヴィチ(当時は「グラジュダニーン」に改名)は辛くも撤退に成功している。


性能諸元

常備排水量14,091~14,415t
全長121.00m
全幅23.22m
吃水8.24m
機関ベルヴィール式石炭専焼水管缶×20基+直立型三段膨張式レシプロ蒸気機関×2基2軸
最大出力15,012~16,378hp
最大速力16.2~17.64kt
航続距離10kt/5,000浬
武装1895年式40口径305mm連装砲塔×2基、1892年式45口径152mm連装速射砲塔×6基、1892年式50口径75mm単装速射砲×20門、1873年式43.5口径47mm単装速射砲×20門、パラノフスキー 19口径63.5mm単装砲×2門、PM1910 7.62mm機銃×4挺、38.1cm水上魚雷発射管×2基、38.1cm水中魚雷発射管×2基、機雷50個
乗員835名

前級:ツェサレーヴィチ

次級:スウィアトイ・エフスターフィイ級戦艦


外部リンク

wikipedia:ボロジノ級戦艦

関連タグ

戦艦 ロシア帝国海軍 前弩級戦艦

問題を報告

0/3000

編集可能な部分に問題がある場合について 記事本文などに問題がある場合、ご自身での調整をお願いいたします。
問題のある行動が繰り返される場合、対象ユーザーのプロフィールページ内の「問題を報告」からご連絡ください。

報告を送信しました