北島康介
きたじまこうすけ
概要
2000年のシドニーオリンピックに当時高校生ながら出場。100m平泳ぎにて4位入賞を果たす。
2002年のアジア大会では200m平泳ぎで2'09"97を記録し当時の世界記録を更新する。
2003年の世界水泳では100m平泳ぎで59"78の世界新記録で優勝、200m平泳ぎでは2'09"42を記録し、大会直前に更新された世界記録を越えて優勝した。
2004年はアテネオリンピックの直前にアメリカのブレンダン・ハンセンが北島の持つ世界記録を破っており「北島vsハンセン」のライバル関係が出来上がる。
五輪本大会では世界記録奪還は叶わなかったものの、100m,200m共にハンセンを破り平泳ぎ種目二冠を達成する。100m平泳ぎ決勝終了後のインタビューで「チョー気持ちいい」と叫んだことが話題となり、流行語大賞第3位に選ばれる。
2008年にはSPEEDO社の「レーザーレーサー」問題が取り沙汰される中、所属の関係でarenaの水着を着用し続けたが、最終的にレーザーレーサーを使用することを決意した。
当時の200m平泳ぎの世界記録は'06年パンパシフィック選手権でハンセンが北島の隣のコースで出した2'08"50だったが、この年のジャパンオープンにて北島はそのタイムを一秒近く上回る2'07"51で優勝、100m平泳ぎも含めて北京オリンピックへ出場を果たす。
五輪本大会の100m平泳ぎでは予選、準決勝共にノルウェーのアレクサンダー・ダーレ・オーエンに1位を譲っていたが、決勝では59秒台の壁を初めて突破、当時の世界記録となる58"91をマークし優勝した。インタビューでの「何も言えねえ」と発した言葉は流行語大賞にノミネートされている。
200m平泳ぎも優勝し、五輪の競泳平泳ぎ種目で2大会連続の2冠を達成した。
4×100mメドレーリレーに於いては第2泳者として58"07を記録し、アメリカチーム第2泳者のハンセンを抜き200mラップで日本チームを1位に押し上げた。バタフライと自由形で巻き返されたものの、宮下純一(Ba)藤井拓郎(Fly)佐藤久佳(Fr)と共に銅メダルの獲得に貢献。
その後は競技生活にブランクを空け休養を取っていたが、2009年に行われた世界水泳ローマ大会にてオーストラリアのブレントン・リカードに100mの、クリスチャン・スプレンガーに200mの世界記録を破られる。
このことに奮起したのかどうかは定かではないが、北島は再び競技生活に戻ることを決意。着々と元のタイムへ近づいていく。
2012年は日本選手権の100m平泳ぎで58"90をマーク、自身の持つ日本記録を0.01秒更新して優勝した。200m平泳ぎでも高速水着が禁止されて以降最速の2'08"00をマークして優勝し、200m平泳ぎは3大会、100m平泳ぎは4大会連続となるロンドンオリンピックへの出場を決めた。
(ちなみに、この年から着用ブランドをarenaに戻している。)
五輪本大会では100m平泳ぎで4位,200m平泳ぎで5位と個人のメダルは逃した。
しかし4×100mメドレーリレーの第2泳者として58"64を記録、前回大会と同じくアメリカチーム第2泳者で長年のライバルであるハンセンを抜いて200m時点で一位へ浮上し、入江陵介(Ba)松田丈志(Fly)藤井拓郎(Fr)と共に、この競技における日本チーム初の銀メダル獲得に貢献した。
競技後のインタビューにおける松田の「康介さんを手ぶらで帰らせるわけにはいかない」という発言はその年の流行語大賞のトップ10にも選ばれた。
12月31日、girl next doorの千紗との婚約を発表。翌年の北島の誕生日に婚姻届を提出した。
十年以上の長期間に渡って世界トップクラスであり続け、五輪で三大会連続のメダルと流行語をもたらした伝説のスイマーであるが、近年は世界大会の代表を外れることが多くなるなど、徐々に肉体の衰えも見え始めた。それでも諦めることなく2016年リオデジャネイロオリンピックへの出場を目指すものの、結局エントリー種目の全てで代表入りを逃すというかつてない惨敗を喫し、リオ五輪代表選手選考会の終了を持って現役を引退することを公式に発表した。
ベストタイム
50m平泳ぎ 27"30(日本記録及びアジア記録)
100m平泳ぎ 58"90(日本記録及びアジア記録、世界歴代6位)
200m平泳ぎ 2'07"51(世界歴代6位、日本歴代2位)