概要
御名は大足彦忍代別尊(オオタラシヒコオシロワケノスメラミコト)。
垂仁天皇が崩御(他界)され、景行天皇元年に即位した。
翌景行天皇2年、播磨稲日大郎姫命(ハリマノイナビノオオイラツメ)を皇后とし、皇后は大碓皇子(オオウスノミコ)と小碓皇子(オウスノミコト)という双子をお産みになった。
弟の小碓皇子が、日本神話で有名な日本武尊(ヤマトタケル)である。
景行天皇は3世紀末から4世紀前半にかけて活躍されたと考えられる天皇で、熊襲や蝦夷をはじめとする、朝廷に従おうとしない全国の首長や族長の平定に遺された。
『古事記』や『日本書紀』によれば、その大半は皇子の日本武尊によって成し遂げられたと伝えられるが、天皇御自身も熊襲平定のために出征されたことが記されており、雄々しい天皇である。
景行天皇60年11月7日、志賀(滋賀県大津市)の高穴穂宮で106歳で崩御された。
系譜
垂仁天皇の第三皇子、母は日葉酢媛命(ヒバスヒメノミコト)。
古事記によれば記録に残っている御子が21人、残らなかった御子が59人、合計80人も御子がいたことになっている。
世継ぎとなった第4皇子・稚足彦尊(成務天皇)には一子がいたようだが育たなかったと見られ、結局国許から事実上追い出した形となった第2皇子・日本武尊の子(14代・仲哀天皇)によって現代に至るまで皇統が続くこととなった。
皇居
都は纒向日代宮(まきむくのひしろのみや、現在の奈良県桜井市穴師と思われる)。
実績
垂仁天皇37年1月1日に立太子。景行天皇元年7月に即位、翌2年3月3日に播磨稲日大郎姫を皇后に立てる。
九州巡幸
景行12年、熊襲が背いたので、これを征伐すべく、8月に天皇自ら赴く。周防国の娑麼(さば、山口県防府市)で神夏磯媛から賊の情報を得て誅殺した。
皇統
- 皇后(前):播磨稲日大郎姫(はりまのいなびのおおいらつめ、若建吉備津日子の娘)
櫛角別王(くしつのわけのみこ)
大碓皇子(おおうすのみこ)
小碓尊(おうすのみこと)
- 皇后(後):八坂入媛命(やさかいりびめのみこと、八坂入彦命の娘)
稚足彦尊(わかたらしひこのみこと、、第13代・成務天皇)
五百城入彦皇子(いおきいりびこのみこ)
忍之別皇子(おしのわけのみこ)
稚倭根子皇子(わかやまとねこのみこ)
大酢別皇子(おおすわけのみこ)
渟熨斗皇女(ぬのしのひめみこ、)
五百城入姫皇女(いおきいりびめのひめみこ)
香依姫皇女(かごよりひめのひめみこ)
五十狭城入彦皇子(いさきいりびこのみこ)
吉備兄彦皇子(きびのえひこのみこ)
高城入姫皇女(たかぎいりびめのひめみこ)
弟姫皇女(おとひめのひめみこ)
- 妃:水歯郎媛(みずはのいらつめ、磐衝別命の娘)
五百野皇女(いおののひめみこ)
- 妃:五十河媛(いかわひめ)
神櫛皇子(かむくしのみこ)
稲背入彦皇子(いなせいりびこのみこ)
- 妃:高田媛(たかだひめ、木事命の娘)
武国凝別皇子(たけくにこりわけのみこ)
- 妃:日向髪長大田根(ひむかのかみながおおたね)
日向襲津彦皇子(ひむかのそつびこのみこ)
- 妃:襲武媛(そのたけひめ)
国乳別皇子(くにちわけのみこ)
国背別皇子(くにせわけのみこ)
豊戸別皇子(とよとわけのみこ)
- 妃:日向御刀媛(ひむかのみはかしびめ)
豊国別皇子(とよくにわけのみこ)
- 妃:伊那毘若郎女(いなびのわかいらつめ、若建吉備津日子の娘)
真若王(まわかのみこ)
彦人大兄命(ひこひとおおえのみこと)
- 妃:五十琴姫命(いごとひめのみこと、物部胆咋の娘)
五十功彦命(いごとひこのみこと)
- 妃:
若木之入日子王(わかきのいりひこのみこ)
銀王(しろがねのみこ)
稚屋彦命(わかやひこのみこと)
天帯根命(あまたらしねのみこと)
武国皇別命(たけくにこうわけのみこ)
大曽色別命(おおそしこわけのみこと)
石社別命(いわこそわけのみこと)
武押別命(たけおしわけのみこと)
豊門別命(とよとわけのみこと)
不知来入彦命(いさくいりひこのみこと)
曽能目別命(そのめわけのみこと)
十市入彦命(とおちいりびこのみこと)
襲小橋別命(そのおはしわけのみこと)
色己焦別命(しここりわけのみこと)
息長彦人大兄水城命(おきながのひこひとおおえのみずきのみこと)
熊忍津彦命(くまのおしつひこのみこと)
武弟別命(たけおとわけのみこと)
櫛見皇命(くしみみこのみこと)
草木命(くさきのみこと)
稚根子皇子命(わかねこのみこのみこと)
兄彦命(えひこのみこと)
宮道別命(みやぢわけのみこと)
手事別命(たごとわけのみこと)
大我門別命(おおあれとわけのみこと)
三川宿禰命(みかわのすくねのみこと)
豊手別命(とよてわけのみこと)
倭宿禰命(やまとのすくねのみこと)
豊津彦命(とよつひこのみこと)
弟別命(おとわけのみこと)
大焦別命(おおこりわけのみこと)
関連タグ
皇位