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生臭坊主の編集履歴

2023-05-28 23:24:39 バージョン

生臭坊主

なまぐさぼうず

肉類を食するなど戒律を破り、堕落した坊主(仏教僧)、のこと。転じて「怠け者」のこと。

語意

生臭坊主」とは、戒律で禁止されているを食べ、女犯財産権力といった俗世に執着している坊主僧侶)のこと。魚介・獣肉などを「生臭物」と呼ぶことから。


また、これが転じて修行やお勤めをさぼり、金策のことばかり考えるような僧のことを指すようになり、「怠け者」を意味するようにもなった。


歴史

奈良時代の僧は、僧尼令で国の統制のもとに置かれた。得度を受けて僧侶になれる人数が制限されており、そもそも僧侶になりたいといっても簡単になれる時代ではなかった(国の許しを受けず僧になった者も、戒律を守り修行に励んでいれば後から公認されることもあったが)。この時代の仏教僧は玄昉や道鏡のように天皇に取り入って強大な権力を有するようになった者もおり、後世の創作では破戒僧として描かれているが、実態は不明である。


時代が下ると国の取り締まりは形骸化し、室町時代に至ると、生臭坊主が世に溢れ返った。臨済宗の一休宗純は男色はもとより、女性との同棲や肉食・飲酒を公然と行った。漢詩集『狂雲集』で女色に耽溺する自己を露悪的に詠んでいる。当時の権力と結びついた高僧は裏でだいたい似たようなことをしていたのだが、破戒行為を堂々と行ないながら権力を批判する一休は大衆の共感を呼んだ。


江戸時代には仏教が寺社奉行の管理の下に置かれ、飲酒・肉食は最悪で破門・追放に処された。女犯に至っては、女郎買いなどの場合は日本橋に三日間晒された上で破門、女犯の相手が夫持ちであった場合は打ち首の上、獄門とされた。ただし浄土真宗は世襲制であり妻帯しても良いため、罰則の対象外であった。このような厳しい罰があったのにもかかわらず、僧侶が生臭坊主となる例が少なくなかった。江戸近郊の多くの僧が医者を装って吉原に通っていたほか、徳川家斉の代の享和3(1803)年には、日蓮宗の住職と大奥の女中らが関係を持っていたという延命院事件という大スキャンダルが発覚している。


明治時代になると、新政府による国家神道政策による神仏分離の促進および廃藩により、既得権益を失った寺院の自活運営の目的から僧侶の妻帯・肉食・飲酒が許可された。上述の意味でなら現代の僧侶の大半は生臭坊主に該当していると言える。


関連タグ

 僧侶 坊主

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