語意
「生臭坊主」とは、仏教の戒律で禁止されている魚や鳥や獣の肉を食べ、色欲や財産、権力といった俗世の欲に執着している坊主(僧侶)のことである。魚介類・獣肉などを「生臭物」と呼ぶことからきている。「天狗になる」の天狗はこの生臭坊主のことを指している(鼻が高いからではない)。
また、これが転じて修行やお勤めをさぼり、金策のことばかり考えるような僧のことを指すようになり、「怠け者」を意味するようにもなった。
歴史
奈良時代の僧は、僧尼令で国の統制のもとに置かれた。得度を受けて僧侶になれる人数が制限されており、そもそも僧侶になりたいといっても簡単になれる時代ではなかった(国の許しを受けず僧になった者も、戒律を守り修行に励んでいれば公認されることもあったが)。この時代の仏教僧は玄昉や道鏡のように天皇に取り入って強大な権力を有するようになった者もおり、後世の創作では破戒僧として描かれているが、実態は不明である。
時代が下ると国の取り締まりは形骸化し、室町時代に至ると、男色はもとより、女色や蓄財にふける生臭坊主が世に溢れ返った。寺院は武装した僧兵を抱え抗争を繰り返し、住職が寺を実子に継がせるのが当たり前であった。臨済宗の一休宗純は漢詩集『狂雲集』で女色に耽溺する自己を露悪的に詠んでいる。当時の権力と結びついた高僧は、裏でだいたい破戒行為をしていたのだが、女性との同棲や肉食・飲酒を堂々と行ないながら権力を批判する一休は大衆の共感を呼んだ。
江戸時代には仏教が寺社奉行の管理の下に置かれ、飲酒・肉食は最悪で破門・追放に処された。女犯に至っては、女郎買いなどの場合は日本橋に三日間晒された上で破門、女犯の相手が夫持ちであった場合は打ち首の上、獄門とされた。ただし浄土真宗は世襲制であり妻帯しても良いため、罰則の対象外であった。このような厳しい罰があったのにもかかわらず、(浄土真宗以外も含めた)多くの僧侶が生臭坊主となっていた。江戸近郊の多くの僧が吉原などの遊郭に通っていたほか、寺院の門前町には私娼を囲う水茶屋が軒を連ねた。妾宅を構えて女犯を犯して堕胎させ、あるいは生まれた子を弟子とする高僧も少なくなかった。徳川家斉の代の享和3(1803)年には、日蓮宗の住職と大奥の女中らが関係を持っていたという「延命院事件」という大スキャンダルが発覚している。
明治時代になると、新政府による神仏分離および廃仏毀釈により寺院は国の保護を失ったが、明治5(1872)年の太政官布告により僧侶の妻帯・肉食・飲酒が許可された。上述の意味でなら現代の僧侶の大半は生臭坊主に該当していると言える。