戸次鑑連
べっきあきつら
大友家に仕えた九州の戦国武将。立花道雪の名で有名。
大友宗麟に仕えた剣術の達者にして、戦国屈指の兵法家として知られる。
のちに西国無双と名を馳せた立花宗重は彼の娘婿に当たり、婿養子として自らの後継者とした。
概要
豊後鎧岳城主、十四代目・戸次親家の次男。
幼名は八幡丸。仮名は孫次郎。諱は他に親廉など。
剃髪後の名は麟伯軒道雪。伯耆守、伯耆入道などを称した。
大友家の加判衆のち筑前守護代を務め、吉弘鑑理(高橋紹運の父)や臼杵鑑速(道雪の継母の弟)と共に豊後三宿老と称される。
元服後の14歳で初陣を果たし敵将を捕縛する武功を立てるなど、当時から大器の片鱗を見せていた名将。
大内義隆、陶興房・晴賢、毛利元就・隆元、小早川隆景、吉川元春、秋月種実、龍造寺隆信ら中国勢や北九州勢との長年に亘る戦での功績が認められ、1571年に立花山城主となり立花氏を継いだが本人は宗麟のお達しもあり立花姓を名乗れず使用しなかった。天正13(1585)年、龍造寺家晴(隆信の父・周家の従甥)が籠る柳川城を攻めている最中に発病しそのまま逝去した。
死の間際、自分の死後、遺骸に甲冑を着せ、柳川の方に向けてこの地に埋めよと遺言をしたが、遺体を戦地に置いてはいけないという家臣たちの判断により、戦場から離されることになった。なおこのとき龍造寺・秋月ら敵軍は攻撃をせずに静かに見送っていたという。
家臣を大切に思い、また家臣から尊敬される人望の篤い人である。