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李斯の編集履歴2023/06/06 10:28:34 版
編集者:戦場の新人
編集内容:記事修正。

概要

生年は不詳。現在の河南省上蔡の生まれ。商鞅と並び称される「法家」。

に仕えていた頃、ネズミが縄張りにしている場所で性格が違うことに気づき、儒学者の荀子に入門。

その後呂不韋の推薦を受けに入り、に仕える。

やがて幾多の困難の果てに秦は天下を統一。功労者の李斯は封建制から中央集権制(郡県制)への転換を説き重用され、丞相にまで出世する。

紀元前210年に始皇帝が行幸先で崩御。李斯は執事の趙高とともに遺書を改竄。長子の扶蘇ではなく末子の胡亥を跡継ぎとするようにした。

しかし、彼らの蜜月も長続きせず、2年後の紀元前208年、李斯は謀反の疑いを掛けられ九族斬罪の憂き目に遭う。

CV:青木強

呂不韋四柱の一人として登場。

確実さを重視する生真面目な性格をしており、「法の番人」という異名を持っている。

商人の視点から物事を見ている呂不韋の考えを理解できずに、振り回されることが多い。

呂不韋の相国昇格に伴って左丞相への抜擢を有力視されていたが、昌文君に左丞相の座を奪われた。呂不韋失脚に伴い投獄されるも、政(始皇帝)の持つ「法治主義」に賛同し翌年に恩赦が出される。

本人曰く韓非子は自身に並ぶ法家とのこと。

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