概要
日本時間の1941年12月8日未明、休日である日曜日を狙ってハワイオアフ島真珠湾に停泊していたアメリカ太平洋艦隊と基地に対し、日本海軍が航空機および潜航艇によって攻撃した。
初戦の南方作戦の一環として計画された作戦であり、これによりアメリカ、イギリス、オランダの三ヶ国に対して開戦した。
経緯
真珠湾に存在する海軍基地は米軍が太平洋で活動する上で最も重要な拠点であり、日本の拡張政策に対抗する為に1940年にアメリカ西海岸から戦闘部隊艦隊が進出し、1941年に太平洋艦隊として再編されてからは常に多くの戦力が配備されていた。
真珠湾に存在する戦艦、空母を撃滅することができれば、太平洋における米海軍の勢力をほぼ一掃することができ、当分の間は日本海軍の活動を妨げる者はいなくなる。
故にここを攻撃したいと考えるのは当然の考えではあるが、その実行には多大な困難を伴った。
まず日本からオアフ島までは6300kmも距離がある上に、その途上にはミッドウェイ島基地が立ちはだかっており、この哨戒範囲を迂回しなければならない。このため油槽船により海上給油を行う必要があったが、これは悪天候では不可能だった。
加えて真珠湾の平均水深は12m程度であり、最大で50mまで沈む当時の航空魚雷では海底に衝突すると考えられたため、浅海に対応可能な新型魚雷の開発も必要となる。
また失敗したときのリスクが甚大であった。もしも米側に気取られて迎撃態勢を整えられれば、虎の子の空母が反撃によって大損害を被り、開戦初頭からほとんど継戦が不可能となってしまう。実際に軍令部兵棋演習では機動部隊全滅の結果が出ていた。
また海軍省軍務局などから米国を過度に刺激し早期講和の道のりが遠のきかねないという政治的観点からの批判もあり、この作戦への肯定的意見はあまり多くはなかった。
しかしながら山本五十六長官が辞表をちらつかせることで軍令部を説得、更に11月5日の御前会議において12月1日が交渉期限と定まり、12月初旬の対米開戦が決定、準備が本格化することになる。
11月26日に空母6隻、戦艦2隻、巡洋艦3隻、駆逐艦9隻からなる南雲忠一中将率いる第一機動部隊はハワイへ向けて出港、12月1日には対米開戦が決定し、そして12月2日、真珠湾攻撃開始を知らせる「ニイタカヤマノボレ一二〇八」が発信された。
ワシントン時間の7日朝、日本大使館に本国政府から、暗号帳を直ちに燃却し、最後の一台の暗号機を破壊するように指示した訓令が送られた。国交断絶の直前にかならずとられる措置である。
戦闘の経過
日本空母の発艦能力の限界により、真珠湾攻撃は二段階に分けられ、戦闘機43機、急降下爆撃機51機、雷撃機89機(そのうち爆装49機)で編成された第一波攻撃隊は現地時間で12月7日午前5時30分(日本時間8日午前1時30分)に、戦闘機35機、急降下爆撃機78機、爆装の雷撃機54機で編成された第二波攻撃隊は同7時15分に発艦している。
一方オアフ島では現地時間の7日朝、北端のレーダーサイトで巨大な編隊を捕捉してたが、当時レーダーを操作していた人員が不慣れであったこと、これの報告を受けた上官が予定されていた本土より到着予定のB-17爆撃機の編隊であると勘違いしたことにより奇襲失敗は避けられている。
また近海においては複数の艦艇や哨戒機が潜水艦らしきもの(甲標的である)を発見、駆逐艦ワードはこれを破壊した後に報告を行っていたが、同海域ではクジラ等の誤認、誤射が発生していたために報告は重要視されず、警戒態勢が取られることもなかった。
7時49分、第一波攻撃隊総隊長の淵田美津雄中佐が真珠湾の上空にて指揮下の攻撃隊に対し「全軍突撃せよ」を意味する符丁「ト・ト・ト・・・」(ト連送)を発し、戦艦8隻(第四戦艦戦隊のコロラドは本土でオーバーホール中であった)、巡洋艦8隻、駆逐艦30隻などからなる太平洋艦隊が停泊する真珠湾に奇襲攻撃を開始。奇襲攻撃が成功すると淵田中佐は日本時間3時23分に機動部隊の旗艦赤城に対し「我、奇襲に成功す」を意味する符丁「トラ・トラ・トラ」を発した。
奇襲ならば本来は村田重治少佐率いる艦攻隊が先行して煙が上がらないうちに戦艦を攻撃する手はずであったが、板谷茂少佐の零式艦上戦闘機からなる制空隊が信号弾に気付かなかった事から、淵田中佐が二発目の信号弾を打った為に、信号弾が一発のみなら奇襲、二発撃たれれば強襲と事前に決められていた為に強襲と誤認した高橋赫一少佐率いる九九式艦上爆撃機からなる艦爆隊が先行して7時55分よりまずは敵の迎撃機を潰す為に飛行場に対して爆撃を実施、これが予定より5分早まった初撃となる。
爆煙が視界を妨がれる前にと九七式艦上攻撃機の水平爆撃と雷撃による艦艇攻撃も追って開始され、戦艦戦隊旗艦である戦艦ウェストバージニアに7本、オクラホマに4本、戦闘部隊旗艦であるカリフォルニアに2本、ネヴァダに1本の魚雷を命中させ、水平爆撃ではドックにあった太平洋艦隊旗艦ペンシルバニアに1発、ウェストバージニア、第四戦艦戦隊旗艦メリーランドと第二戦艦戦隊旗艦テネシーに2発、第一戦艦戦隊旗艦であるアリゾナには4発を命中させ、弾薬庫を貫かれたアリゾナは轟沈。オクラホマは転覆。ウェストバージニア、カリフォルニアは大破着底させるなど8隻からなる戦艦部隊をほぼ壊滅させ、また航空基地への銃爆撃でも航空機に多大な損害を与えた。
この事態にハワイ海軍航空隊幕僚ローガン・ラムゼー中佐は「真珠湾空襲! これは演習ではない!」」との劇的な放送をフォード島から行った。
一方で米軍側も手をこまねいていたわけではなく、奇襲から立ち直るや攻撃の合間に対空陣地を構築して迎撃態勢を取り、日本軍に存在を知られず攻撃を免れていたハレイワ基地から出撃したP-40戦闘機のケネス・テイラー中尉、ジョージ・ウェルチ中尉や、ホイラー飛行場などからも少数ながら迎撃機が離陸して日本側に損害を与えている。
第二波攻撃隊はこれらの迎撃態勢に真っ向から突っ込む形となり、9機の犠牲を出した第一波攻撃隊と比較しすると20機が失われるかなりの被害を受けている。
島崎重和少佐率いる第二波攻撃隊は、島崎少佐率いる水平爆撃隊が飛行場を、江草隆繁少佐率いる艦爆隊は目標の空母が居ない事から他の艦艇に攻撃を加えた。(空母レキシントンはミッドウェー島、空母エンタープライズはウェーク島への航空機輸送の任にあたり不在であった)
この折に戦艦ネヴァダは湾外に脱出を図るも6発の爆弾を受け炎上し、着底して水路を塞ぐことを防ぐために座礁した。
日本側が29機が撃墜され74機が損傷し、甲標的5艇が失われ、64名の戦死者を出したのに対して、アメリカ側は戦艦4隻、標的艦1隻が沈み、戦艦4隻を含む14隻が損傷を受け、航空機は413機中189機が破壊され、159機が損傷し、第一戦艦戦隊司令官アイザック・キャンベル・キッド少将を含む2335名の戦死者と1143名の負傷者を出す大損害を被った。
またこの大損害の責任を追及された太平洋艦隊司令長官ハズバンド・エドワード・キンメル大将、ハワイ方面陸軍司令官ウォルター・キャンベル・ショート中将は解任され、共に少将へと降格処分を受けた。
この戦果は奇襲がアメリカ側の被害を増大させた大きな原因であり、航空機の殆どは地上で撃破され、停泊中の軍艦の多くは水密隔壁が閉まっておらず、魚雷命中による浸水の被害を増大させた。また甲標的による攻撃も行われ、こちらは戦艦オクラホマの転覆を引き起こしたという研究がある。
しかし、日本側は主力艦、航空機への攻撃を重視した為に、戦艦群附近に停泊していた給油艦ネオショーは高オクタンの航空燃料満載状態で被爆すれば彼女のみならず戦艦隊にも危険な状態であったが見過ごされて脱出に成功し、港湾施設や貯蔵燃料タンクもほぼ無傷であった。
12時ごろから攻撃隊は順次帰投した。
この際、第二次攻撃に関して議論があったとも言われるが、荒天下のなかの夜間の帰艦になる事や敵空母の所在が不明、ハワイよりの航空攻撃の可能性などの事情から南雲司令長官は撤退を選択した。
態勢を立て直した飛行場や、付近を航行していた空母エンタープライズが追撃のために索敵機を出しているが、空振りに終わっている。だが前述のオアフ島のレーダーサイトは北に引き上げる日本軍機を捉えており、混乱していたアメリカ側には誰も彼等の存在に気付く事は無かったという。
また東部標準時で午後2時過ぎ、野村、来栖両大使がハル国務長官に最終覚書を手交した。
もともとは攻撃開始直前の午後1時に最終覚書を手交するよう、在米大使館が本省から厳密に指示されたにもかかわらず、野村吉三郎・来栖三郎両大使は日米が開戦したことを知らず、手交が遅れてしまったのである。このことが米国世論を更に刺激したとしてしばしば批判される。
ただこの際の覚書はあくまでも交渉打ち切りを宣言する者であり武力行使については触れていないため、正式な宣戦布告と言うわけではない。
そもそも完全な奇襲により2000名以上の将兵と数十名の民間人を殺害したわけであるから、仮に攻撃開始前に完璧な宣戦布告をしていたとしても、それで米国民の怒りを抑えられたかは甚だ疑問である。
この為に日本軍はあくまでも奇襲を最優先していたとも言え、生真面目なまでの米国民の激しい怒りの反応は、国交を断絶されたが宣戦布告されずに攻撃された日露戦争でのロシア、真珠湾攻撃の二時間前に宣戦布告なしに攻撃されたイギリスの見せた態度とは違う予想外の事であったのかも知れない。
いずれにせよ真珠湾攻撃の結果、アメリカ太平洋艦隊は主力である戦艦部隊は壊滅させられ、日本側は目的通りにその妨害を受ける事無く、開戦初期には順調に東南アジアへの侵攻を成功させる事となる。
日本では12月8日午前6時、米英二国に対して戦争状態に入ったことを知らせるラジオの臨時ニュースが流れた。
「大本営陸海軍部、十二月八日午前六時発表 帝国陸海軍は本八日未明西太平洋においてアメリカ・イギリス軍と戦闘状態に入れり」という短い発表であった。
陰謀論
日本海軍の奇襲攻撃によって太平洋艦隊が一瞬にして大打撃を受けたアメリカは、「リメンバー・パール・ハーバー(真珠湾を忘れるな)!」をスローガンに国民を総動員して、戦争に突き進んでいくことになる。
だが、この奇襲攻撃については「フランクリン・ルーズベルト大統領は暗号解読によって、日本軍の動きを事前に知っていたが、『先に攻撃したのは日本』という状況を作り出すために、わざと先制攻撃させた」という陰謀論がある。その状況証拠としては、アメリカでは開戦前日の6日夜に解読された外交文書の最終覚書が大統領執務室に届けられており、ハル長官も全文を読んでいたが、ハワイの太平洋軍司令部にだけは陸海軍の縦割り行政での手続き、ハワイの陸軍無線機の故障による民間の無線機での通信などで警戒警報が遅れ、攻撃後にようやく配達された点がよく取り上げられる。
もっともこの暗号解読によって日本が戦争を始めそうだと察知できたものの攻撃場所までは特定されてはおらず、アメリカ側はフィリピンがまず攻撃を受ける可能性が大であると予測しており、当然ながらフィリピンには警戒するよう無線は届けられている。
しかしながら、別に万全の準備で迎え撃ったとしても「先に攻撃したのは日本」という事実は変わりなく、その際米兵に死者が出ることも間違いないわけで、リメンバー・パールハーバーのスローガンは結局生まれたことだろう。
それに国民の怒りは「日本軍の騙し討ち」に流れたとはいえ、まかり間違えばその怒りは真珠湾の大損害の責任はルーズベルトの「怠慢」にあると大統領に向けられ、政敵や世論から追及されて失脚させられる恐れも充分ありえるものであった。
また、これに付随する形で「開戦の口実作りと時代遅れの戦艦部隊を一掃するために戦艦を囮につかい、重要な空母は被害を受けないように真珠湾から退避させた」と言う日本軍誘い出し説というのもある。
しかしこれに関しては、当時「重要なのは戦艦であり、空母は補助的な役割に過ぎなかった」という反論がある。それこそ日本軍が真珠湾攻撃を初めとした航空戦力を活用したために空母の重要性が見直されたのであって、開戦当時の艦隊主力はあくまで戦艦であった。
その証拠に、沈没した4隻のうち2隻が修復され、最終的に戦線復帰している。
また空母エンタープライズは荒天下でなければ真珠湾攻撃の前夜には帰港する予定であった。
戦時中から日本・アメリカ双方の国内でこの手の陰謀論が囁かれていたが、現在ではまともな学者には相手にされることはない。その後の趨勢を見れば確かに説得力のある説ではあるが、実際は陰謀などではなくアメリカ軍側の不手際と日本軍の周到な作戦が上手くはまってしまったが為にこの戦禍を招いただけだとするのが現在の歴史家の総評である。ルーズベルト大統領はこの状況を最大限に政治利用したが、当初からそれを目論んでいたわけでは無かったとするのが大凡の見解である。
しかしながら、これが陰謀論として根強く支持されているのにも理由がある。
真珠湾攻撃以前のアメリカの国内世論は、アメリカと直接的な関わりの無い第二次大戦への参戦には反対する声が圧倒的に強かった。ルーズベルト大統領も当初は「アメリカが攻撃されない限りは参戦はあり得ない」と平和路線を強調していたが、真珠湾攻撃以降は大義名分を得たと言わんばかりに大戦への積極的介入を展開し、大日本帝国とナチスドイツとの戦いに突入することになった。結果だけ見れば真珠湾攻撃はルーズベルトの対外戦略路線にピッタリ沿った状況を生み出したわけである。当時のアメリカ軍上層部に対するホワイトハウス側の不手際などもあまりに不可解な点が多かったことから、参戦の口実を得るために意図的に日本軍の真珠湾攻撃を成功させたのではないか?という憶測を国内外に広めることとなったのである。
この陰謀説はアメリカ人の精神に拭いきれないものを残した。現に2001年にアメリカ同時多発テロ事件が起きた際も、真珠湾攻撃の陰謀説になぞらえた陰謀論が取りざたされたほどである。