概要
「冷笑系」は2010年代から主としてTwitterの共通性を持った特定のクラスタを表すために使われるようになったネットスラングである。
なんらかの主張や意識、とりわけ政治的・社会的なものを上から目線でカッコつけて、冷ややかに笑いの種にしたり侮辱したりする人物や、そうした人々に特有の発言・態度を指す。
一般的にはシニシズムと呼ばれるスタンスの現代的な変形種である。
wikipediaでは、冷笑主義の英語版からの翻訳記事で、「他人の動機に対する一般的な不信感を特徴とする態度」であり「野心、欲望、貪欲、満足感、物質主義、目標、意見などの動機を持つ人々に対して一般的な信念や希望を抱かず、それらを虚しく、達成することのできない、究極的には無意味なものであると認識し、嘲笑や非難に値すると考えている」ものだとしている。
冷笑系の人物は、社会批判や、現状改革のための何かに熱心に取り組む人や、真剣に何かの主張をする人、或いは熱意が高じて感情が高ぶっている人などを標的にする。
そういった人たちに対してなにかと粗捜しをしたり、独りよがりだとあざ笑ったり、内容ではなく感情的になっていることを悪であるかのように形容したり、揚げ足を取るのを特徴とする。
夢を達成しようと取り組む人には「馬鹿馬鹿しい」「無駄な努力」、善意の行動をとる人には「どうせ売名目的」「偽善」といった具合にシニカルな動機が隠されていると決めつけるなどである。
名称の由来でもあるが、直接的に罵倒するというよりも対象の意欲や動機そのものを嘲って、チクチクネチネチと、冷水を浴びせかけるかのような悪意を向けるのが特徴である。
性質上、冷笑系の標的になるのは社会正義を訴えることが多い政治的左派のネットユーザーがほとんどすべてである。
冷笑系は二つの勢力が対立しているようなものに関しては一見して中立的な立場をとるが、これは自らが上位から全てを俯瞰してシニカルに達観している風を装う知的ファッションに由来するものであり、自らの冷笑的言説を駆り立てている当人の政治性を他者に悟られないようにするための偽装である。
冷笑系の言動は「右翼も左翼もどっちもどっち」などの「どっちもどっち」論を典型的なものとするが、こうした発言は外部からの突っ込みを想定して張っている予防線、エクスキューズとしてであり、実際のところは一方に対してのみ冷笑的な反応を見せ、もう一方に対しては何も言わずスルーする「中立装い」である。
「冷笑系」が2010年代以降勢力を増すとともに特徴が認知されていくようになると、そうした呼称を受けた側は「レッテル貼り」というロジックで反撃を行うようになった。
しかし、主観的には自己像を無色透明な「論理的」「無党派」の存在と位置付けている冷笑系にとっては理解しがたいことかもしれないが、Twitter上では文章中に登場する表現や単語のカテゴリ、リツイートやフォロー/被フォロー、リプライなどでのアカウント同士の関連性が可視化可能な状態であったために、「特定の言説傾向を持ったクラスタ」が存在していることそのものは散文的な事実でしかないわけである。
また、当然すべての言説には前提やコンテキストが存在し、特定の立場を取っていない政治的発言などは原理的に存在しえないのであり、彼らもまた特定の考え方を拒否する大衆の一部分であることは(左派が特定の考えを支持するのと同様に)取るに足らない事実に過ぎない。
或いは、こうした呼称自体が「左派による卑劣な自己正当化・負け惜しみ」として非難に転じる向きもあるが、冷笑系のユーザーは体質的に自己の属性を顕在化されることを嫌っているため、自分は普遍的正義の狂騒の枠外にいるはずであると彼らが強烈に思いこんでいることが明確になった点では有効な反撃であったと言えよう。
そもそも、自分の気に入らない思想を「正義の暴走」とレッテルを貼って独自の価値観から非難しているのは冷笑系の方であり、揚げ足取りのみに腐心する冷笑系は保守派と違い本来左派の議論の相手ですらないわけである。
他、政治的文脈とは関連しないところでも、似たようなエートスをもった冷笑的スタンスのネットユーザーが、熱意を持った人物に対して嘲笑を含んだ罵倒を投げかけることがある。
その場合、アンチの一種とみなすこともできる。
政治的なものやそれ以外の物を含む冷笑的言説全般を総合すると、自らは何も生み出さず、他の物を腐しているだけの人種である。
その性質上他人を苛立たせる言動が多いが、結局のところ本人はとにかく何かを否定して害意を満たしたい人たちなので放っておくしかない。というか、相手にするだけ無駄である。
特徴
- 「正義の暴走」という表現を非常に好み、正義を嫌悪している
- 「右も左もどっちもどっち」「自分は右でも左でもない」という表現で自らを政治対立を俯瞰する強者に位置付けている、或いはバランス感覚のあるように装う、自分自身の政治的立ち位置を周囲にわからないようにしている
- 社会的熱意に対して突き放したような言動を取る。現実主義者のように見せかけている
- 現状改革の努力を無意味だと嘲る
- 「必要悪」などの概念を好み、現状批判の揚げ足をとる
2ちゃんねるとの関係
冷笑主義の一大増殖地となったのは2ちゃんねるである。
もともと2ちゃんねるではレスバトルに夢中になって口調がヒートアップしきたり相手への返答として投稿が短時間に連続すると、その人物を「必死になっている」「顔真っ赤」と嘲笑したり相手の怒りを誇張することで、相手の意欲そのものを侮蔑してマウントをとることが一般化していた。
2ちゃんねるでは「賢い奴はどんな時でも感情的にならずクールである」「怒っている奴は低次元で馬鹿」というイデオロギーが充満しており、とにかく他者の意志や熱意を毛嫌いして馬鹿にするカルチャーがある。
加えて、2ちゃんねるは建前上「書き込んでいる中の人はいない」ことになっている設定の匿名空間であるが、こうした匿名状況は「発言者自身の属性を一切覆い隠す」という効果をもたらす。
このことが、顕名の通常議論では起こりえないような「(この世のすべてを「ネタ」として消費することすら厭わない)無責任なまでの傍観者目線」「自己への批判を回避しながら一方的に相手を批評する権利」を2chユーザーに与えることになった。
2chでレスバに負けない方法は、自己の主張を一切持たず、「あくまでもネタ」という不誠実なスタンスを装い、ボロを出さないようにしながらひたすら相手がミスをするのを待つか、誰でも腹を立てるような不必要で失礼な発言によって冷静さを失わせてミスを誘い、僅かでも語調が荒くなれば「勝利宣言」を行うことである。このような議論とも言えない独特な中傷合戦は、やがてネット作法として定着していった。
こうしたアングラ空間のネットマナーが日本語圏のネットユーザーの基本的態度に影響してしまったために、後に発展したニコニコ動画などのコミュニティやTwitterなどのソーシャルメディアにもそのノリをそのまま持ち出す人が少なくなかった。
2ちゃんねる管理人の西村博之自身も冷笑的な議論や詭弁の達人であり、一種2ちゃんねらーの憧れのレスバ強者として偶像化されていた一面がある。
西村を代表する「それってあなたの感想ですよね?」という発言は、まさに冷笑系を象徴する言葉である。
また、2ちゃんねるでは活動家を「プロ市民」といって陰謀論で中傷したり人権派を罵倒することが日常的に行われていたのも冷笑系への伏線となっている。
今日冷笑系と言われるクラスタの思想的源泉となったのは2ちゃんねるである、ということは相当の妥当性を持って指摘することができる。
問題点
本来であるならば、懐疑主義そのものは悪いことではない。
例えば人権への懐疑にしても、大義名分と、それを悪用する者への批判や、理想と現実のギャップを指摘することは一定の意味を持つはずである。
政治的正しさなどについて、その成否を議論することすら差別に当たる、という過激な硬直的性向に対しての多様な観点も必要である。
しかし、冷笑系はこうした本来の意味での健全な懐疑主義そのものとは質的に大きく異なっている。
最大の差異は、現状改善によって軌道修正を図るための分析ではなく正義などの社会概念そのものを否定していることにある。
このため、冷笑系からは現状改革の手立てが生じてこない。
社会が全く理想を求めないと目指すべき方角もなく、ひたすら目先の利益しか追求しなくなり、国際的にも何の価値を示すこともできず、どれだけ経済力があろうと尊敬を得たりリーダーシップを取ることもできない。
善悪や正義は観念的な存在とされているが、社会はその正義などの筋道を持つことで適切に統合され、適切に動機づけられ、コミュニケーションを行う擬制なのである。
冷笑系のように正義の可能性をあざ笑って否定すると社会は自己修復力を失って腐敗してしまう。
社会は試行錯誤の末に成功と失敗の歴史を紡ぎ、その上で善意を用いて発展を目指すものであり、都度傍観者が失敗や至らない部分をなじったり善意を腐していればそれすらもなくなってしまう。
中立を偽装することで自らを知的に装っているが、自らの思想的立ち位置を自分を含む全ての社会全体の中で示すことができないのはむしろ知的に未成熟な「大衆」にのみ見出される特徴である。
議論は双方が己の偏りや自分自身の言葉や思考を拘束している個人的なイデオロギーや信念やドクサの自覚と正直な開示なしには発展しようがない。
感情的になることが悪い、と決めつけているため、正当な怒りや理不尽への抵抗を無化してしまう。
左派などへの批判しにしても言いがかりに等しい物や抽象でしかないようなものも珍しくない。
例えば、悪法が国会を通過して成立した際には法案提出した内閣や与党ではなく、成立を阻止できなかった野党が力不足で悪いのだという倒錯した批判を行う。
今日の社会はアメリカ民主党主流派に代表されるような社会自由主義、一般にリベラルと呼ばれるイデオロギーがアイデンティティー政治などと結びついて非常に攻撃的な言論スタイルをとるようになったことなど革新側の問題も発生しているが、少なくとも政治的分断を乗り越えて社会的公正を真剣に考える上で冷笑系が意味を持つことはないだろう。
政治的な左右は両者の欠点を補正し合い、ヘーゲル的に止揚することで市民の幸福を導出する可能性のあるものだが、冷笑系は究極的なところ単なる揚げ足取りに過ぎないからである。