概要
経歴
校書殿から善愷訴訟事件まで
弘仁2年(811年)に誕生、校書殿の役人となり後の承和8年(841年)に大内記となる。蔵人・式部大丞となり承和10年(843年)に従五位下、右少弁となる。承和13年(846年)に善愷が訴訟を起こすが右大弁正躬王ら弁官5人が不正を行った事を糾弾し翌年の承和14年(847年)に事件は終息した。(善愷訴訟事件)
応天門の変
嘉祥元年(848年)に参議となり右衛門督・検非違使別当・中宮大夫となり貞観2年(860年)に中納言、貞観6年(864年)に大納言となる。貞観8年(866年)に応天門が焼失され左大臣源信が犯人と訴えた。結果信は無実となるが後に善男・中庸親子が犯人として捕らえられ善男は伊豆国へと流され貞観10年(868年)に死去した。(応天門の変)
人物
狡猾であったが才知と弁舌に優れていた。