ソ連の建国者 Влади́мир Ильи́ч Ле́нин
ウラジーミル・イリイチ・レーニン
ロシア語: Влади́мир Ильи́ч Ле́нин
本名ウラジーミル・イリイチ・ウリヤノフ
ロシア語Владимир Ильич Ульянов
生没: 1870年4月22日 – 1924年1月21日
優れた演説家として帝政ロシア内の革命勢力をまとめ上げ、世界で最初に成功した社会主義革命であるロシア革命において主導的な役割を果たした。ソビエト連邦およびソ連共産党(ボリシェヴィキ)の初代指導者を務めた。
マルクス主義(共産主義)理論の研究と普及にも尽力し、『帝国主義論』『国家と革命』などの著作は大きな影響力を持った。
後日、スターリン一派の主導により、マルクス・レーニン主義という体系にまとめられた。
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評価
ソ連共産党内
- レーニン死後のボリシェヴィキの党内闘争では、対立する諸派はいずれもレーニンの忠実な後継者としてふるまった。
- スターリン派はマルクス・レーニン主義を体系化し、トロツキー派はボリシェヴィキ・レーニン主義を標榜した、その過程でレーニンは神格化されていった。
スターリン批判によりスターリンの権威が落ちた後もレーニンの権威はほとんど揺らがなかった。
世界共産党(主義者)連盟内
- 第二インターナショナルの社会主義者はレーニンを厳しく批判した、当時マルクス主義理論の最大の権威だったカール・カウツキーは社会主義革命は民主主義によって成就すると考えており、1918年に出版された『プロレタリアートの独裁』でボリシェヴィキの一党独裁を批判した。
- レーニンは、カウツキーに対して『プロレタリア革命と背教者カウツキー』で反論しカウツキーを背教者と非難した。
- 急進派でレーニンに比較的近い政治的立場をとっていたローザ・ルクセンブルクも獄中で書いた草稿「ロシア革命のために」でボリシェヴィキによる憲法制定議会の解散について批判的な視点を示した。
冷戦期
- 冷戦期には、スターリン時代のソ連をナチス・ドイツと同等の体制と見なし、レーニンをその創始者として否定的に評価する全体主義論が大きな影響力を持った
- ウィンストン・チャーチルは「ロシア人にとって最大の不幸はレーニンが生まれたことだった。そして二番目の不幸は彼が死んだことだった」と語った。
ソ連末期・崩壊後
- ソ連末期のグラスノスチ以後に公開された文書により、革命直後から内戦の時期にかけてレーニンが政敵に対して使っていたテロルの実態が明らかになると、レーニンは単なるスターリンの先駆けにすぎないのではなくスターリンと同等の独裁者として評価されることが多くなった。
- ロシアのドミトリー・ヴォルコゴーノフやアメリカのリチャード・パイプスがこの傾向を代表する。
- 一部のマルクス主義者から「レーニンの理論の幾つかはマルクスの理論と食い違っている」という批判もある。
正教会弾圧
少年時代には既に権力と癒着し腐敗していたロシア正教会に幻滅していた、マルクス主義的無神論者であり正教会を反革命の温床とみなしていた。
1922年3月、イヴァノヴォ州シューヤで発生した教会財産接収に反対するデモが暴徒化した。
死者まで招いたこの事態に憤慨し、3月29日にロシア正教会の弾圧を指示。
多くの主教達を処刑し、教会資産の没収が強行された。
同様の弾圧はウクライナ正教会、グルジア正教会など、ロシア正教会以外の正教会やイスラム教のモスクに対しても行われた。
チェーカーを動かし聖職者の処刑と教会資産の没収が強行されていったのである。以降グラスノスチまでイコンの所持は禁止された。
レーニンは後に、「宗教は毒酒である」と言葉を残している。
知識人弾圧
レーニンは、反体制派の数万人の知識人に「反ソヴィエト」というレッテルを貼りつけ、逮捕し、国外に追放した。ゴーリキー、エレンブルグ、マヤコフスキーら共産主義を支持していた作家たちも激しい攻撃にさらされた。あるものは体制におもねった作品を世に出すようになり、あるものは自殺に追い込まれ、またあるものは沈黙を余儀なくされた。
レーニンもトロツキーも自由と人権についていかなる考えも持ち合わせていない。彼らは既に権力の毒に冒されている - マクシム・ゴーリキー