藤原道長
ふじわらのみちなが
平安時代中期の公卿・政治家。従一位摂政太政大臣。藤原摂関政治期の全盛期を演出した。
概要
藤原兼家の五男。父や兄(藤原道隆・道兼ら)が相次いで没した後兄の子(伊周)との政争を制し藤原摂関家を率いた。
長女彰子を一条天皇の中宮(皇后と同位)に、次女妍子を三条天皇の中宮に、そして三女威子を後一条天皇(一条天皇と彰子の男子)の中宮とした。姉妹三人を中宮とした例はかつてなく、威子入内の宴の席で有名な「望月の歌」を詠んだと言われる。
この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば
晩年は仏教に深く帰依した。摂関の地位は嫡子の頼通が嗣いだが道長没後、次第に摂関家の権力は揺らいでいく。
「御堂関白」と称されるが実際に関白に任ぜられたことはない(後一条天皇の摂政は務めた)。一条・三条両天皇は道長が政権を握った時期には既に成人しており、道長は太政官の首位たる左大臣の職位と内覧の権限で政権を掌握・運営した。
なお、日記は後世「御堂関白記」と称され、1951年に国宝指定されている。2011年5月、ユネスコ世界記憶遺産へ推薦決定。
紫式部との関係
長女彰子に仕えた女房・紫式部とは面識があり、既に『源氏物語』が世に知られていた彼女に物語の続きを度々催促していたとか。「『源氏物語』は最古のラノベ」説に則れば、さしずめ「最古の担当編集者」というべきであろうか。
…なお、『源氏物語』については、道長が自分をモデルにした小説を紫式部に書かせたものだとか、一部に道長の筆が入っているとかいう説もある。