概要
経歴
敏達天皇の子孫で皇族として従三位・参議に進むが母の橘三千代の姓を賜わり臣籍降下をする。降下後に大納言に進む、天平10年(738年)に右大臣になる。聖武天皇から信任を受け政治を行い天平12年(740年)の恭仁京造営にも関わった、天平15年(745年)に左大臣に進み墾田永年私財法を施行した。天平感宝元年(749年)に正一位に進むが光明皇太后に信任を受けた藤原仲麻呂に勢力を抑えてられて衰退、さらに天平勝宝8歳(756年)に上皇に対して無礼な発言をしたという疑いを掛けられ政務を引退し天平勝宝9歳(757年)に死去。
家族
母の三千代は後に藤原不比等と再婚し光明子を生む。妻は藤原多比能は不比等の娘で光明子とは姉妹にあたる、子に奈良麻呂。