概要
極左暴力集団「東アジア反日武装戦線」のメンバー。
尾道市の高校を経て進学した明治学院大学で東アジア反日武装戦線に参加し、さそり班として活動。
1975年の連続企業爆破事件に関与したとされるが、高校時代の同級生へのインタビューによると、当時は政治への関心を殆ど見せておらず、ノンポリと認識していたという。
新左翼に傾倒したのは「影響されやすい」性格が理由ではないかとのこと。
同年5月にメンバーが一斉逮捕された際に逃亡し、行方不明となる。
発見
2024年1月25日、神奈川県の病院に末期がんで入院している「内田洋」なる男性が、自身が桐島であると語ったことから、警視庁公安部はこの男性の身柄を確保。
取り調べにおいて、関係者しか知りえない情報と共に、一部容疑(韓国産業経済研究所爆破事件への関与)を否認する供述や、「最期は本名で迎えたかった」という想いを述べた。
しかし、取り調べ中に意識を失うなど容体は深刻で、ほどなくして危篤状態となり、同月29日に死去。桐島のDNAが残っていないことから本人確認が難航を極め、存命中に結論が出ることは無かったが、約一か月間のDNA鑑定を経て、翌2月27日に桐島本人と断定された。70歳没。
ちなみに、桐島は長らく藤沢市の工務店で住み込みで働いており、支援者の存在は否定している。
身分が分からないように運転免許証や携帯電話は持たず、銀行口座もないため給料は現金で支給されていた。
健康保険も未加入なため病院を避けており、入院したのは行き倒れて救急車を呼ばれたためだった。
葬式は偽名のまま行われ荼毘に付された。
親戚は彼の遺体の受け取りを拒否しており彼の遺灰は無縁仏としてどこかの寺に保管してある。
反響
50年近くに渡る逃亡生活の間に指名手配のポスターが全国のいたるところに掲示され、犯罪者の中でも世代を問わず高い知名度を誇った。
このため桐島の発見は大々的に報じられ、同時に「音楽好きで定期的にバーに通う」「多数の吞み仲間がいる」「恋愛経験もある」など、およそ逃亡のイメージとはかけはなれた暮らしぶりは衝撃を与えた。
また、騒音トラブルで警察を呼ばれた際も、加齢により顔つきが変わっていたため気づかれなかったという。
よく指名手配ポスターや警察特番で「犯罪者はすぐ近くに潜んでいるかも?」と語られるが、桐島の逃亡生活はまさにその好例と言えるだろう。
その他
- 東アジア反日武装戦線では、逮捕を免れた唯一にして最後のメンバーだった。
- 発見直後の2月1日、同じく指名手配犯だった在日韓国人の暴力団幹部の男が逮捕された。この男は指名手配のポスターで桐島の隣に掲示されており、桐島への関心の高まりと共に目撃情報が増加したことで発見された。
- 内田洋としての愛称は「うっちー」「うーやん」。出身地は岡山県の広島寄りの地域と公言していた(実際の出身地である福山市は、逆に広島県の岡山寄りの地域である)。
- 発見当時は勝ち逃げと評する声が多かったが、実際には先述の通り制約の多い生活を強いられていた他、死後は遺族に遺骨の引き取りを拒否されており、本当に勝ちと言えるかは意見が分かれる。
関連項目
宮川大輔:指名手配ポスターの顔が似ていると評されていた。