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根上淳の編集履歴2024/06/27 19:08:43 版
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編集内容:表現を少し修正(隊長専用デザインが存在しない作品もいくつか存在するため)

概要

本名は森 不二雄(もり ふじお)。東京府豊多摩郡中野町(現・東京都中野区)出身。

父方の祖父はオーストリアの音楽家ルドルフ・ディトリッヒ、日本名=日土理非)、祖母は森菊。父はヴァイオリニストの森乙。甥はROUTE 66とTHE CHAPPYSでボーカルを務めた森雅裕。

杉並商業学校⇒法政大学経済学部⇒進駐軍の通訳を経て1947年に演技研究所の学生という形で大映に入社した。

1950年の「二十歳前後」で初めて主人公の役をつかみ、1951年の「牝犬」でのバンドマン役でブレイクして以後は菅原謙次と人気を二分し、二枚目スターとして活躍した。

1967年に大映を退社、その頃には映画出演作品は100本を越えていた。

以降は活躍の場をテレビドラマに移し『白い巨塔』(NET版)の里見脩二役や、降板した塚本信夫の後任として『帰ってきたウルトラマン』の伊吹竜隊長役を演じるなど、存在感のあるバイプレーヤーとして多くの作品に出演した。

1965年、根上の大ファンであった歌手のペギー葉山と結婚し1968年には長男が誕生、結婚後も夫婦で本を出版し、書道の展覧会に二人で出展するなど芸能界一のおしどり夫婦として知られた。

1998年に糖尿病の合併症による脳梗塞で倒れ芸能活動を休止、自宅で療養していたが2005年10月24日に死去した。

戦時中

法政大学在学中に学徒出陣日本陸軍に招集され、特別操縦見習士官として戦闘機の操縦士の教育課程を受ける。しかし訓練中に胸を悪くしてしまい入院、そのまま終戦を迎え復学している。

しかし学友たちの多くは特攻隊に動員され、命を落としてしまった。ゆえに俳優になってからは戦争映画への出演や軍人の役は拒否し続けた。数少ない例外は1968年2月に公開された東映の『陸軍諜報33』だが、内容的には戦争映画と言うよりはスパイ映画であり、演じたのは軍人ではなかった(ちなみに売国奴の大学教授)。

このほか『海軍兵学校物語 あゝ江田島』(1959年9月)の兵学校の先生役、『日露戦争勝利の秘史 敵中横断三百里』(1957年12月)の特務機関長役など戦争映画に出演する際には極力正規の軍人役を避けており、『あゝ零戦』(1965年9月)に海軍中佐役で出演したのが唯一である。

ちなみに軍ではなく自衛隊の場合は『BESTGUY』(1990年12月)に航空幕僚長役で出演している。

そして1996年、母校である法政大学の多摩キャンパス(東京都町田市、根上が在籍した経済学部がここに移転してきた)に、生き残った学友たちとともに平和記念碑を建立している。

ウルトラシリーズ

『帰ってきたウルトラマン』で伊吹隊長を演じた際、加藤隊長を含めそれまでの防衛チームの隊長は隊員と全く同じデザインの制服だったことから「階級の違いを表すものをつけてほしい」と要望を出し、制服に細いラインを追加した専用の制服が新たに作られ、以後の防衛チームでも一部の作品を除き踏襲された。

また第43話で伊吹隊長が妻の実家に里帰りに向かう車中で、娘がカーラジオを掛けたところ妻のペギー葉山の「南国土佐を後にして」が流れ楽しそうに聞くという役者ネタが盛り込まれている。その後ペギーも『ウルトラマンタロウ』でウルトラの母の人間態として出演している。

根上が亡くなる直前ペギーは『ウルトラマンタロウ』のDVD発売記念イベントに参加しており、ビデオメッセージには根上を気遣う声が多く寄せられていた。

さらに根上が死去した際にファミリー劇場で『帰ってきたウルトラマン』が放送されており、訃報と共に冥福を祈るテロップが表示された。

岸田隊員役の西田健も訃報に接し自身のファンサイトの掲示板に「伊吹隊長に敬礼!」と書き込み根上をしのんでいる。

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