ピクシブ百科事典は2024年5月28日付でプライバシーポリシーを改定しました。改訂履歴

アントニヌス・ピウスの編集履歴

2012-10-25 00:05:14 バージョン

アントニヌス・ピウス

あんとにぬすまたはあんとにうすぴうす

第15代ローマ元首アントニウス家初代当主 元首アウグストス以上の平和な統治を創出した。キリスト教以前のローマ皇帝では最長の統治である。 86年  - 161年

IMPERTOR CAESAR TITVS AELIVS HADRIANVS ANTONINVS AVGVSTVS PIVS PONTIFEX MAXIMVS

全名ティトゥス・アウレリウス・フルウィウス・ボイオニウス・アリウス・アントニヌス(出生時)
本名Titus Aurelius Fulvus Boionius Arrius Antoninus
副官時代Titus Aelius Caesar Antoninus
ティトゥス・アエリウス・カエサル・アントニヌス(ハドリアヌスの代理元首)
生没86年9月19日:ラウィニウム(イタリア本土)- 161年3月7日:(74歳没)ロリウム(イタリア本土)
権力元首ハドリアヌスより継承
統治138年7月10日- 161年3月7日(23年)
皇帝名インペラートルカエサル・ティトゥス・アエリウス・ハドリアヌス・アントニヌス・アウグストゥス・ピウス(即位時)

概要

第15代ローマ元首アントニウス家初代当主、『慈悲深いアントニウス帝』の名称の方が近い五賢帝の4人目。


アントニウスの家族

アントニウスの家族祖先はは北西アフリカの属州のムーア人出身であり、帝政時代が始まったころに元老議員となった家族でアントニヌス自身は純血なローマ人ではない。


即位まで

137年、元首ハドリアヌスの治世は21年目、もはや老人になはてていた。しかしいまだに後継者を確定できずにいた。ハドリアヌスの養子で後継者のアエリウス・カエサル結核で早逝した、ハドリアヌスはアエリウスの子マルクス・アウレリウスを有力視したが、まだ16歳と未熟と判断し中継ぎとしてローマ元首を選ぶに至った。


そこでハドリアヌスは、その当時彼を補佐していた執政アントニヌスに目を付けた。ハドリアヌスはアントニヌスに事情を話した、そして、アントニヌスはハドリアヌスと養子になることを承認した。この時アントニヌスは50代過ぎた老人であった。


即位

西暦138年7月10日、ハドリアヌス帝が病没するとアントニヌスはルキウス・ウェルスマルクス・アウレリウスの後見人として即位。 アントニヌス51歳


トラヤヌスの曾姪でマルクス・アウレリウスの叔母でもある大ファウスティナと結婚、小ファウスティナを儲ける。アントニヌスは元老院を尊重した事で安定して帝位は継承された。アントニヌスはハドリアヌスへの弾劾を取り下げるように元老院を宥めた


慈悲深きアントニヌス

「アントニヌス・ピウス」(Antoninus Pius、慈悲深きアントニヌス)の名で知られるが、これは先帝ハドリアヌスが元老院から憎まれていたにもかかわらず、神として祭るように奔走したことが美談として受け取られたことに由来する。


即位後

元首即位後マルクス・アウレリウスを財務官職にするも仕事や権限は無いに等しく皇帝不在の時に手紙を代読するといった秘書的な役割が精々だった。執政官としては二つの元老院議長の一人として議会を統制する立場であった。


帝都からの統治

元首アントニヌスの統治はそれまでのトラヤヌスハドリアヌスとは打って変わり、淡々と地味なものであった、彼は軍事行動以外の事では一切帝都ローマを離れることはなかった。休暇を取る時もローマ近郊の質素な邸宅で休養した。恐ろしく規則正しい生活と公務だったようで、国父席(玉座)にすわる時間も歴代ローマ元首で最長だったと思われる。


君主らしい元首

そのような態度が周辺諸国の君主には『君主らしく』見えたのだろう、ハドリアヌス時代よりよほど外交はうまくいっていたという。(別にハドリアヌスは外交は不得意であった訳ではないが質が違うのである。)


将軍経験なし

元首アントニヌスの特異な所の一つに将軍として軍団を指揮した経験がないことである、ローマ元首は最高インペラートルであるから、軍を率先して指揮しなければいけないのだが、文官たたき上げ感のあるアントニヌスにその経験がないことは致命的かとおもわれたが。幸いにも大規模な軍事行動は起きなかった。ただしっかりと格ローマ将軍間の調整は完璧に行っていたようである。


目に見えない行政改革

アントニヌス時代の記録は乏しい部分があり、23年間という長期間の治世に対して大規模な公共建築も残さなかった。その代わりに帝国の法体系(ローマ法)や行政制度の改革に熱意を注いだとされる。ローマがラテン人を祖とする国家としてだけでなくもっと多様な人々を糾合する多文化・多民族の国家に転身する必要を強く感じ、今でいう連邦国家に近いものを作ろうとしていたのではないかと推測された。アントニヌスは市民権や奴隷制に関する改革を行ったとともされる。


後のローマ帝国の政治混乱で彼の政治改革が本当に生かされたのかは分からない、がもしかするとローマ軍同士での内乱でもローマが破堤しなかったのは彼の行政改革のおかげかもしれない。


156年、70歳を迎えていたアントニヌスは目に見えて衰弱しており、まともに立つことも困難になりつつあった。


老いた皇帝は早朝の会議で眠らないように乾いたパンを口の中で噛み続ける習慣を行ったとも言われる。アウレリウスは叔父の補佐官として行動する機会が増え、皇帝の政務を一部代行するようになった。


崩御

ある日、アルプス産のチーズを食べたアントニヌスはその夜に嘔吐と発熱を起こした。


161年3月7日、アントニヌスは病を押して議会を開くと自らの寝室に置かれていたフォルトゥナ神の銅像を「アウレリウスの寝室に移せ」と命じた。言い終えるとアントニヌスはそのまま仰向けに倒れて息を引き取った


享年74歳


関連


ローマ帝国 ローマ元首 五賢帝

テルマエ・ロマエ

問題を報告

0/3000

編集可能な部分に問題がある場合について 記事本文などに問題がある場合、ご自身での調整をお願いいたします。
問題のある行動が繰り返される場合、対象ユーザーのプロフィールページ内の「問題を報告」からご連絡ください。

報告を送信しました

見出し単位で編集できるようになりました