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今川了俊の編集履歴

2024-10-23 00:46:36 バージョン

今川了俊

いまがわりょうしゅん

南北朝時代・室町時代の今川家庶流で九州探題。

略歴

九州赴任

南北朝時代室町時代武士歌人で、今川家の庶流・遠江今川家の祖。

了俊の名は2代将軍足利義詮死去に伴い出家した際の法号であり、元の名は今川貞世という。


正中2年(1325年)、または嘉歴元年(1326年)に今川3代・今川範国の次男として出生。

12、3歳の頃に祖母の香雲院の指導のもと和歌を始め、16、7歳頃に京極為基に師事した。吉田兼好とも交流があり、兼好死後にその従者で弟子だった命松丸を引き取っている。


了俊は武士として侍所や引付頭人などを歴任していたが、応安3年(1370年)に管領の細川頼之から九州探題に推薦され、応安4年(1371年)に弟の今川直世(後に氏兼)今川仲秋らと共に懐良親王征西府打倒のため九州へと赴任し、年末に上陸。


手始めとして、大内弘世を大将に任じて門司親頼の猿喰城を攻略させたのを皮切りに、南朝方を次々と切り崩して応安5年(1372年)8月には大宰府攻略を果たし、11月には南朝本拠のある肥後にまで勢力を伸ばした。


水島の変

永和元年(1375年)7月、肥後の水島にまで軍を進め、そこで九州の三大勢力である豊後大友親世筑前少弐冬資大隅島津氏久らに来援を呼びかけたが少弐だけは応じず、島津に促されてようやく来陣した。

その水島の陣において了俊は宴の最中に冬資を謀殺。その理由は、少弐氏が二心を抱いていたこと、筑紫の乱れの元が少弐であること(少弐氏は宗像氏の社領を横領しており了俊はそれを諫めている)などを挙げたが、面目をつぶされた島津は離反して帰国、大友も帰国し以後は支援を躊躇するようになる。

了俊は自らの起こしたことながら窮地に立たされ、9月に水島より撤収したが、肥前へ通じる道を南朝へ通じた少弐勢の一部に塞がれ、これを大内義弘ら中国勢の支援により追い払えたのは翌年の9月であった。


征西府攻略

その後は徐々に勢力を回復し、永和3年(1377年)には肥前蜷打で南朝方に大勝した。この頃、了俊は安芸・備後・筑前・筑後・肥前・肥後・大隅・薩摩の8国の守護に任じられている。

康暦二年(1380年)10月、水島陣を取り戻す。南朝方は益々士気が低迷し、南朝方の領地は豊後の一部、筑後の矢部付近、肥後の中部くらいにまで減少、更に永徳元年(1381年)に懐良親王が薨去する。了俊はこれで余裕が生まれたか以降は攻略を急がず、征西府を降したのは明徳元年(1390年)の9月であった。

応永2年(1395年)8月、突然に九州探題を罷免され、遠江駿河の半国守護を命じられた。


晩年

応永6年(1399年)には大内義弘が堺で挙兵。了俊によるとこのとき、甥の今川泰範が了俊が自ら所望して駿河守護職を得たものとして恨みを抱き、了俊が大内と通じていると足利義満に讒言して了俊と仲秋の守護職を奪い取ったとされる。

更に了俊がこれに怨みを抱いて、鎌倉公方の足利満兼に乱への呼応を呼びかけたとして、幕府より了俊追討令が出された。しかし、了俊はまんまと守護職を奪った泰範が助命嘆願したことで許された。ただし、今川姓を名乗ることを禁じられ、「堀越」を名乗っている。


以降は執筆活動に勤しみ、応永27年(1420年)に95歳で没したとされる。ただし、応永25年(1418年)に僧の正徹が著した『なぐさめ草』では、了俊は既に故人であると記されている。


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今川家 南北朝時代 九州探題

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