解説
徳川家康の母方の従兄弟で福山藩初代藩主の水野勝成が築城した城。
別名を久松城・葦陽城という。
正式名称は鉄覆山朱雀院久松城ともされる。
これは天守の背面を鉄板で覆っていたため「鉄覆山」四神相応の朱雀の位置に城があるため「朱雀院」そこに別名の久松城を加えたものである。
室町時代の福山には街がなく、福山城の北方の中腹部にあり室町時代に但馬山名氏の一族である山名理興が築いた神辺城(福塩線の神辺駅が最寄り駅)が存在した。戦国時代になると大内氏や毛利氏が領有した。1591年に豊臣秀吉の命令で月山富田城から神辺城に移された末次元康(毛利元就の八男)は神辺城に代わる居城として王子山城を築いていたが関ヶ原の戦いで毛利家が備後を失い、元康もこの地を去った。代わりに安芸・備後を与えられた福島正則は神辺城を家老の福島正澄に与えたを再び活用し城代を置いた。しかし、正則は武家諸法度違反で1619年に改易され水野勝成が備後南東部と備中西南部を与えられ大和郡山から神辺に移った。勝成が封ぜられたのは中国地方の抑えとしてのことであり、勝成は幕府の許可を得て神辺城を廃城としこの城を築き城下町も造成した。この地は野上と呼ばれていたが福山と名付けられ備後東部の中心となっていった。
水野氏改易後は一時天領となるが、その後松平氏を経て阿部氏が城主となる。
江戸初期に江戸幕府の要請で築城されたため、近世城郭の集大成の一つとも言うべき堅牢さを誇り、特に現在では破壊されている西側の縄張りは桝形門、三重櫓、多門櫓を重ねた厳重さを誇っている。
建築は層塔式天守の完成形(そのため反面変化が少なく単調にも見える)ともいうべき五層天守を戴き、周辺に多数の三重櫓を配する。反面、その三重櫓は伏見城から移築された伏見櫓(関ヶ原の戦い後のものではなく、秀吉時代のものと推定される松之丸三重櫓?)や望楼を持つ月見櫓、神辺城から移築された一番~四番櫓と、古風な建築も多く、変化に富んだ盛観であった。
この風景は幕末に残された写真からも実感できる。
幕末には長州軍の攻撃を受けた。長州藩が王政復古により官軍となった際にも搦め手から攻められ降伏した。
明治以降は天守と伏見櫓、筋金門以外は順次破壊された。
明治24年 三の丸南側部分を東西に横断するように鉄道と駅が設置される。そのため本丸以外の縄張りは破壊され市街地に埋没し、現在では確認できなくなっている。
近年駅前バスターミナル改修工事の際、本丸内堀の遺構が発掘され、保存を希望する市民団体が表れたが、埋め戻される事となった。
その後本丸の天守等が修復されるが、福山大空襲により天守が焼失することになった。
昭和41年に天守が復元されるも、写真等の資料が残っていたにもかかわらず一部形状(突き上げ窓が格子窓に変更、北側の鉄板張りが白壁、明治初期に存在した五層目廻廊を覆う外壁を省略)が変更されており、復元では無く「復興」天守とみなされている。なお元の天守の礎石は天守北側に移築され現存している。
伏見櫓と筋金門のみ現存している。
天守の他、上述の月見櫓や本丸南壁、湯殿、鐘楼、鏡櫓が復元され、福山駅から往時の盛観を取り戻している。
その他
- 所謂「近世城郭」としては最も新しい城
- 一部に伏見城のパーツが使われていて、伏見櫓がそれにあたる。
- 上記にあるように城内の一部を横断する形で鉄道駅が設置されている。駅の中央通路が二の丸正門に当たる場所である。
- 月見櫓と湯殿は福山市民であれば市役所に予約して個人利用が可能。内装は純和風で障子張り、畳敷き。天守を眺めながら場内で宴会できる稀有の城である。