福山城
ふくやまじょう
概要
徳川家康の母方の従兄弟で備後福山藩初代藩主の水野勝成が築城した城。
別名は久松城・葦陽城。
正式名称は鉄覆山朱雀院久松城ともされる。
これは天守の背面を鉄板で覆っていたため「鉄覆山」、四神相応の朱雀の位置に城があるため「朱雀院」、そこに別名の久松城を加えたものである。
所謂「近世城郭」としては最も新しく、島原城などと共に江戸幕府の許可を経て築城された城の一つ。幕府からは西国の抑えと期待されて作られた城であるため近世城郭の集大成の一つとも言うべき堅牢さを誇り、特に現在では破壊されている西側の縄張りは桝形門、三重櫓、多門櫓を重ねた厳重さを誇っている。
建築は層塔式天守の完成形(そのため反面変化が少なく単調にも見える)ともいうべき五層天守を戴き、周辺に多数の三重櫓を配する。反面、その三重櫓は伏見城から移築された伏見櫓(関ヶ原の戦い後のものではなく、豊臣秀吉が築いたものと推定される松之丸三重櫓?)や望楼を持つ月見櫓、後述の神辺城から移築された一番~四番櫓と、古風な建築も多く、変化に富んだ盛観であった。
この風景は幕末に残された写真からも実感できる。
伏見櫓と筋金門のみ現存。天守の他、月見櫓・本丸南壁・湯殿・鐘楼・鏡櫓が復元され、福山駅ホームから往時の盛観を眺めることが出来る。
歴史
当項目では福山城の北方に存在した神辺城についても触れる。
神辺城築城〜備後福山藩誕生前
神辺城は福山城の北方にある神辺平野(福山平野)を見下ろす標高133mの黄葉山に築かれていた城。現在山頂は吉野山公園として整備され、東側には福山市神辺歴史民俗資料館が建てられている。
細かい時期は不明だが室町時代に山名氏が築いた城で備後国の政庁も置かれた(異説あり)。戦国時代になると大内氏と尼子氏の抗争の舞台にもなったが最終的には毛利氏が領有した。1591年に豊臣秀吉の命令で月山富田城から神辺城に移された末次元康(毛利元就の八男)は神辺城に代わる居城として王子山城を築いていたが関ヶ原の戦いで毛利家が備後を失ったため元康は長門厚狭郡へ移った。代わりに安芸・備後を与えられた福島正則は神辺城を家老の福島正澄に与えた。しかし、正則は武家諸法度違反で1619年に信濃川中島へ移された。
福山築城〜幕末
福島氏改易後、水野勝成が備後南東部と備中西南部を与えられ大和郡山から神辺に移った。勝成が封ぜられたのは中国地方の抑えとしてのことであり、勝成は幕府の許可を得て神辺城を廃城としこの城を築き城の南方を干拓するなどして城下町も造成した。そしてこの地は福山と名付けられ備後東南部の中心となっていき今日に至っている。
水野氏改易後は一時天領となるが、その後松平氏を経て阿部氏が城主となった。戊辰戦争開戦前に王政復古により朝敵を解除され官軍となった長州藩の軍勢の攻撃を受け降伏した。
明治維新〜現在
明治時代になり山陽鉄道によって1891年(明治24年)に福山駅が設置されたが、駅は福山城の三の丸南側を東西に横断するように建てられた。さらに福塩線が国有化された際、ターミナル駅を(福山駅北方にあった)備後福山駅から福山駅に変更したことで二の丸櫛形櫓・鉄砲櫓跡に福山駅に入る福塩線の新線が敷設された。このため本丸以外の縄張りは破壊され市街地に埋没し、現在では確認できなくなっている。駅のコンコースが二の丸正門に相当する。結局、天守と伏見櫓、筋金門以外は残らなかった。その後本丸の天守等が修復されるが、福山大空襲により天守が焼失することになった。
昭和41年に天守が復元されるも、写真等の資料が残っていたにもかかわらず一部形状(突き上げ窓が格子窓に変更、北側の鉄板張りが白壁、明治初期に存在した五層目廻廊を覆う外壁を省略)が変更されており、復元では無く「復興」天守とみなされている。なお元の天守の礎石は天守北側に移築され現存している。
近年の福山駅前バスターミナル改修工事の際、本丸内堀の遺構が発掘され、保存を希望する市民団体が表れたが、埋め戻される事となった。
余談
月見櫓と湯殿は福山市民であれば市役所に予約して個人利用が可能。内装は純和風で障子張りの畳敷き。天守を眺めながら場内で宴会できる稀有の城である。