曖昧さ回避
概要
同派の富田江と双璧を成す天下第一の江派刀と称されている。
号の由来は美濃清水城主・稲葉重通(一鉄の庶長子で春日局の伯父・養父に当たる)が所持していた事から。
1585年(天正13年)に本阿弥光徳に依頼して磨上げた上で金象嵌銘を入れている。この金象嵌銘は指裏に「天正十三十二月日江本阿弥磨上之(花押)」、指表(さしおもて)に「所持稲葉勘右衛門尉」と記されている。なお重通はこの頃兵庫頭に任ぜられ、勘右衛門尉は四男の稲葉道通が名乗っていたため道通の所持になっていた可能性がある。
その後、道通(または重通)は徳川家康から僅か500貫(金25枚とも)と引き換えに召し上げられた。
重通が逝去してから2年後の慶長5年(1600年)の会津征伐の途上、下野国小山(現栃木県小山市)で世に言う「小山評定」を開いた家康は、転進して石田三成を討つ事を決める。
この時奥州への抑えとして結城秀康を残す事となったが、秀康はこれに反発して自らも西へ向かいたいと訴えた。
これに対し、家康は稲葉江と采配を渡し、秀康に託した役割がいかに重要であるかを説得したという。その後秀康はつとめを果たし、関ヶ原の戦いの勝利に貢献する事となった。
秀康の死後、稲葉江は越前松平家に伝わり子の松平忠直、孫の松平光長の手に渡り越後騒動を経て光長の養子・松平宣富を初代とする津山松平家へと移る。昭和4年(1929年)3月の「日本名宝展覧会」では、松平康春子爵所持として出品された。
昭和11年(1936年)に旧国宝指定を受け、昭和20年(1945年)に刀剣愛好家である中島飛行機(SUBARUの前身)社長・中島喜代一の所持となる。
昭和26年(1951年)に国宝指定を受けるが、その後所有者の死後に所在不明となる。これが明らかになったのは平成27年(2015年)だったが、平成28年(2016年)に所在が判明。文化庁の発表によれば、2015年2月に稲葉江を購入した個人の収集家が「所在不明文化財」の報道を見て、同庁に連絡をしたという。
平成31年(2019年)、岩国市のカシワバラ・コーポレーションが稲葉江を購入し、取締役会長が理事を務める柏原美術館(旧:岩国美術館)に寄贈。折に触れて公開されている。