概要
帝政ロシアのミンスク県(現在のベラルーシ、ウクライナの一部)の Adamarynで裕福な地主の家庭に生まれた。
略歴
1847年にミンスクのギムナジウムに入学。
1853年タルトゥ大学、ワルシャワ大学で医学を学び、後にベルリン大学で古生物学、植物学、医学を学んだ。海洋の魚類、甲殻類の研究のための野外調査も行った。
1862年にワルシャワ中央学校の自然科学(動物学)の教授に任じられた。
1864年にロシア帝国に対する武装蜂起(1月蜂起)に参加した罪で起訴され、死刑判決を受けた。
後に12年のシベリアでの強制労働に減刑された。
その年の8月にイルクーツクに着くとすぐにシベリアの自然の研究を始める。
1865年にチタの近くでインゴダ川沿いの村、さらに同じチタ県のダラスン(ru)へと移され2年間を過ごす。
1868年に施政官によって、病院の医師として働くことを条件に、市民権を回復し強制労働から開放された。クルツークの小さい村に住み、バイカル湖の詳細な科学調査を行い、ロシア地理学会の支援を受けた。
1879年から、サハリンや、カムチャッカへの様々な調査探検を行い、医者としても働いた。
1883年に当時、オーストリア=ハンガリー帝国の領地であった現在のウクライナのリヴィウに移住し、リヴィウ大学の動物学の教授となるが1906年に大学当局と不和になり退職した。
第一次世界大戦が始まった後、リヴィウは、帰属がさまざまな国家に移り変わり、いくつかの困難に見舞われることになった。
1927年にソビエト科学アカデミーの会員に選ばれ、1921年にはワルシャワ大学から名誉博士号、1923年にヴィリニュス大学から名誉博士号を受けた。97歳でリヴィウで没した。
ロシア語、ポーランド語、ドイツ語で生涯175の動物学の論文を執筆し、多くの動物の種を記載した。
親族
いとこにアフリカ探検をしたフランスの農学者、ジャン・ディボフスキィがいる。