概要
「折檻」は、pixivでは体罰やSMプレイに関する絵のタグとして用いられている。
なお、メイン画像のお姉さんの決め台詞は、「火星に代わって折檻よ!」
しかし本来は全然意味が違う
元の話
前漢の成帝の時代、天変地異が続いた。天人相関説を信じていたのか、あるいはそれを政争の具にしたのか、当時権勢を誇っていた帝の外戚・王氏の専横が天変地異の原因だと囁かれた。成帝は元丞相であり師である張禹にこの事について相談した。張禹は「天変地異の原因は様々。田舎の儒者共になにが分かるか。帝がしっかり政治をすればよい」と答えたので帝は王氏を疑わなくなった。王根を始めとする王氏の人々はこの答えに感謝し、自ら張禹の屋敷に出向いた。
朱雲は背丈が八尺余り(当時の一尺を23cmとして180cm以上)、腕力があり若い頃は人の仇討ちを手伝うなどやんちゃをしていたが、40才になって論語を学んだ人物だった。
朱雲は帝に謁見を求め、大臣が並ぶ前で「今の大臣達は主人を諌める事も民を助ける事も出来ません。私に斬馬刀を貸してください。佞臣を一人斬って大臣たちの目を覚まさせてやります」と言った。帝が誰を斬るのかと聞くと張禹だと答えた。師であり信用していた張禹を大臣たちの前で身分の低い者に貶されたので、成帝は怒り「死んでも赦されない」と言った。御使が朱雲を引っ張って連れていこうとしたが、朱雲は手すり(檻)に掴まって尚も諫言を続けた。「私は死んでもあの世で竜逢・比干(主君に諫言して殺された有名人達)と会えるが、この朝廷はどうなるのか」しまいに手すりが折れて(折檻)朱雲は連れていかれた。しかしこれを聞いていた側近である左将軍の辛慶忌が感動して「あの者は国を思えばこそあの様な無礼を働いたのです」と免職覚悟で死刑にしないよう嘆願した。成帝も怒りが解けて許すことにした。また直臣を顕彰するためにと折れた手すりを交換せず、折れた跡の分かるように修復した。
したがって「強く諌める(目下の者が目上の者をたしなめる)」のが本来の意味。
「檻」も「オリ」ではなく「手すり」の事である。
佐久間信盛の折檻状
日本では、少なくとも戦国自体には意味が変化していたらしい。織田信長が家臣の佐久間信盛を厳しく叱って出家に追い込んだ書状が「佐久間信盛折檻状」として残っている。しかし文章で叱っただけなので、体罰という意味はまだ読み取れない。