社会党
しゃかいとう
世界的観点で見た社会党
「社会民主党」「社会労働党」などの党名を名乗る場合も多い。社会主義の理想を掲げる政党として知られるが、社会主義の多義性に応じてその実態もさまざまである。社会主義と共産主義はイコールではない。手短に言えば数ある社会主義のうちの一つが共産主義ということになる。下記のように、党名が「社会党」であっても、実質上は共産主義政党である場合もある。
ヨーロッパ
ドイツ社会民主党は、その前身のドイツ社会主義労働者党が1875年に結成され、社会主義を掲げる政党としては最も長い歴史がある。ヨーロッパでは(非共産主義の)社会主義勢力が強く、ドイツ・フランス・スペイン・北欧諸国など多くの国で長期間政権を担ってきた歴史がある。
東欧
東欧諸国ではソビエト連邦共産党およびソビエト連邦をモデルとした一党政治国家などの中に「共産党」を名乗らず「社会○○党および○○社会党」などのように共産党まであえて名乗らない場合も存在した。ただしこの場合でも一党独裁に近いものには変わりはない。
ソ連崩壊後
ソビエト共産党およびソ連崩壊後では東欧およびヨーロッパの共産党を名乗る政党の存在意義が見失われる事態に陥り、共産党政府・人民共和国家そのものが崩壊消滅するようになった。かつての一党独裁だった共産党が民主化に対応するための処置として。プロレタリア(労働者)政府の放棄、共産党的な組織ルール(民主集中制)や市場経済・民主主義を受け入れ「社会民主主義」に近い福祉国家に近いものを目指す政党に変更し党名も「社会党」などに変更するようになったりした。(ブルガリア社会党)などがその例である。
日本の社会党
戦前
戦前の左派・労働勢力の政党(無産政党)としては1901年の社會民主黨(社会民主党)が始まりであるが、その後続く左派政党はほとんど当時の内務省の監視・弾圧対象であった。
大正期の帝国議会は皇室の藩屏を自認する財閥・華族、および地方の地主に支えられた万年元勲与党の立憲政友会と、都市有力者や都市中間層が中心となった立憲民政黨による二大政党政治が存在したが、いずれも労働者農民の権利擁護は不熱心で社会政策は後回しにされた。特に農山漁村の生活水準は江戸時代と大して変わらない地域が多く、都市部との格差は広がる一方だった。戦前の保守派の間では労働者や貧農など無産階級(プロレタリアート)への警戒心が極めて強く、成人男性全員の政治参加を保障する普通選挙と、皇室や私有財産制を否定する運動(すなわち社会主義的な運動)を取り締まる治安維持法が抱き合わせにされたのは、この警戒心の現れであった。
ちなみにこの治安維持法で取り締まり対象に上げられていた「私有財産制の否定」は要件が曖昧であるとして当時から反対意見が多かったが、案の定警察の好き放題に拡大解釈され、ついには日本の民主主義を完全に葬り去ることになる。
普通選挙実施後の無産政党としては大衆運動を重視し共産主義に融和的(左派)な労働農民黨(労農党)、労働組合を基盤に社会民主主義政治(右派)を目指す社会民衆黨、(中道)的労働党の全国大衆黨があった(日本共産党は非合法であり公然活動はできない時代である)。しかししだいに民衆黨は「社会民主主義」から「国家主義」に転化していく。労農党は、ソ連共産党の指導を受けた日本共産党の介入を受け混乱・分裂し、中道派との連係を模索するようになる。その3党が結集した全国労農大衆黨を経て統一社会主義政党「社會大衆黨(社大黨)(社会大衆党))」が結成された。
折しも時代はファシズムが一世を風靡し、議会政治の行き詰まりへの不信から全体主義への体制刷新を求める声(新体制運動)が高まり、翼賛政治(大政翼賛会)が始まって、翼賛会指導部は当時の帝国議会の諸政党に解散・翼賛会参加を命じた。・・・ここで一見信じられないことが起こった、一応まがりなりにも左派・民衆派を標榜していた「社會大衆黨」が保守政党の「政友会」や「民政黨」などよりも早く政党を解党し大政翼賛会に一番乗りに参加し全大衆党員を持って戦争・軍国協力を推進した。
これはどういうことかというと、この時には治安維持法で国策に反対する者は片っ端から検挙されていたので、戦争反対を唱えていた労農党や社会民衆黨左派の流れを引く人々は当局の圧迫で転向するか、比較的言論取り締まりが緩やかだった外地に逃げているか、刑務所に入っているか、そうでなければ監視のもとで沈黙を強いられているといった状態で、ほぼ根絶やしにされていたからである。当時の官僚・軍部はファシズムの影響で社会主義的な政策を取り入れており、中道寄りの無産勢力は、生き残りのため、軍部や内務官僚にすり寄った。
こういうわけで、この期に及んで翼賛政治に反対できる抵抗勢力として残っていたのは、むしろ伝統的保守派や右派の一部側だった。最終的には、当局のやりたい放題の武器と化した治安維持法が、戦争への抵抗勢力として残っていた右派にも牙を剥いたのは言うまでもない。
戦後の日本社会党は旧社會大衆黨の議員が中心となって結党した。戦後の左翼が反戦に熱心になった背景には、こうした戦前の痛切な反省がある。
戦後
一番知られているのは1945年に結成、1996年に社会民主党に改組した日本社会黨(日本社会党)(にっぽんしゃかいとう))である。初の総選挙では第1党となり、保守政党の日本民主黨(日本民主党)と協同組合主義(会社主義)の国民協同黨の3党連立で片山政権を作ったがわずか1年足らずで崩壊、その後日本再独立の際の条約の内容により左右社会党に分裂、1955年に統合、以降は主に野党第1党となった。同年、社会党再統一に対抗して保守勢力が合同して自由民主党が結成され、保守と革新の2大勢力の中で一貫して保守側が優位を保つ体制が1990年代まで続いた。これは後に「55年体制」と言われるようになった。その後も社会党の左右両派の抗争は激しく、分裂を繰り返しては弱体化が進み、自民党の支配体制を崩すまでには至らなかった。
3つの「社会党」
この間に社会党内で脱党した主力党議員が、別々の「社会党」を結党した、1つ目は1960年に日本が独立したときの条約(特に日米安全保障条約)に反対した右派社会党議員が社会党を脱党し結党した「民主社会党(民社党)」である。民主社会主義は「共産主義」に明確に反対する立場でありながら民主主義国家において社会主義を実践するという立場なので、もともと左派系の日本社会党とも敵対関係となった。2つ目は1970年代に停滞する社会党と決別し、構造改革政権を目指す社会党員らが社会党を脱党し「社会民主連合(社民連)」である、社民連は共産党以外の野党らで統一戦線を作り。当時の万年保守与党の自民党を下野させることを最優先とした。なお現在の民主党所属の菅直人は最後の社民連の代表であった。
「民社党」、「社民連」は1994年の細川政権を構成する小沢一郎率いる野党連合の一角となり、その小沢が統一政党として新進党を結党した際に。2つとも解党・消滅した。(日本社会党はボロボロになりながらもまだ存続していた。)
転機となったのは1986年に土井たか子が委員長に就任してからで、消費税やリクルート事件、宇野首相の女性問題スキャンダルもあり1989年の参議院選挙では自民党に対し圧勝しており、翌年の衆議院選挙でも躍進、この時初当選した議員には仙谷由人、松本龍、岡崎トミ子、赤松広隆など現在の民主党の要職に就く者が多かった。
1993年の新党ブームと反自民ムードは逆に社会党を追い詰め、1990年に増やした議席を大きく減らす結果となった。それでも公明党、日本新党、新党さきがけ、新生党などと共に細川連立政権を樹立するが、実は数の上ではそれでも社会党が第1党だったにもかかわらず、与党内勢力争いでは後塵を喫しており、翌年にはこれが響いて連立政権を離脱。遂には長年の宿敵であった自民党と連立政権を樹立することとなり、委員長である村山富市が首相となったが、逆に自衛隊・原発・安保容認などのこれまでの方針とは180度の転換で、国民や所属議員からの信頼を失う結果となり、これも短命政権に終わる。
この間に行われた各種選挙でも次々に敗退する体たらくで、結局1996年に社会民主党に改組され、約半数の議員は社民党でなく民主党に合流している。