概要
特撮番組『怪奇大作戦』内である意味一番有名なエピソード。あまりに題材が危険すぎたため、封印作品となっている。
内容は夫と子供を心神喪失者に殺された脳科学者の女性が、殺人を犯したい人達を「脳波変調機」により人為的に精神異常にしてから殺人を犯させる、という話。
当時の刑法第39条第1項にある「心神喪失者は殺人を犯しても罰せられない」という規定により、彼らは皆不起訴に終わってしまう。脳科学者は、この法の穴により心神喪失者を野放しにしている社会へ復讐しようと目論んだ訳である。
最期は脳科学者自身が罪から逃れるために装置を使用し、本物の廃人になって終わるという死に逃げにも近い終わり方になっている。
・・・もちろん、人為的にクルクルパーになった状態で罪を犯した場合は「目的において自由な意志」が存在するためウラが取れれば即有罪である。まして本作の事案のように、裁判終了後に即健常者に戻っていれば更に無罪判決は絶望的だ。結局、これだけの命を奪ってしまえば最後は自ら責任を負うことを残りの人生すべてと引き換えに放り出すか、おとなしく縛り首になるかのどちらかしかないわけである。人を殺すとはそういうことだ。
ではなぜ39条は心神喪失者を罰しないのか?
最初に書いておくが、刑罰と言うものは被害者感情をぶちまけた報復行為ではない。それは西部劇かマフィアの世界の話であり、現代日本において他人の法益を侵害した人間が自己の自由や財産を剥奪されるのは、「それらの法益(牢屋に閉じ込められず、金も奪われないということ)を護る自由」を自ら率先して放棄したからのしかかってくるわけである。だから罪を犯すということは、たとえそれがどんな大義名分があろうが自らを苦しめる行為に他ならないというわけだ。
で、話を元に戻すと、幼い子供や酔っ払い、または「そういう人たち」は「自己の法益を護るという行為」が存在すること自体全く分かっていないのである。これが「責任能力の有無」と言われる問題だ。
例えば、貴方が何らかの方法で異国に辿り着いて、たまたまミミズを踏んで殺してしまったとしよう。そこでその国の住民にあなたは捕えられ、「我らの国の聖獣であるミミズ様を殺した貴様は死刑だ」などと言われたとする。その時あなたはどう反論するだろうか?
・・・うん、わかってる。人の命と虫の命を比べてはいけないことくらいは。だが、貴方は「蚊を殺す」という行為が全く悪い事だともいいことだとも思っていない。そこに責任能力が生じるか? 罰を下していいものか?
39条とは、単に責任能力のない者を野放しにして被害者を泣き寝入りさせるという目的で制定された条文ではない。まして差別を正当化する法律なんぞでは断じてない。刑法という概念の最も根幹に当たる問題を抉り出しているのが39条に他ならないのである。