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狂鬼人間

きょうきにんげん

円谷プロ特撮番組「怪奇大作戦」の第24話のサブタイトル。 1969年(昭和44年)2月23日放送。
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概要

特撮番組『怪奇大作戦』において、ある意味一番有名なエピソード。
あまりに題材が危険すぎたため、封印作品となっており、DVDにも収録されていない。作中では幾度となく「気○い」などの放送禁止用語が連発されるため、ビデオ(ベータマックス)やLDには収録されたが、1990年代中盤に全話収録予定だったLDボックスが発売当日に回収となって以降は欠番となり、情報さえほとんど世に出ない状況にある。

内容は夫と子供を心神喪失者に殺された脳科学者の女性が、殺人を犯したい人達を「脳波変調機」により人為的に精神異常にしてから殺人を犯させる、という話。

当時、そして現在の刑法第39条第1項にある「心神喪失者ノ行為ハ之ヲ罰セス」(現在の刑法では「心神喪失者の行為は、罰しない」)という規定により、彼らはみな不起訴処分に終わってしまう(不起訴処分ではまだ「無罪が確定」したわけではないため、後日逆転有罪になる可能性が高い)。

脳科学者は、この法の穴により心神喪失者を野放しにしている社会へ復讐しようと目論んだ。
最後は脳科学者自身が罪から逃れるために脳波変調機械を最大出力で使用し、本物の廃人になって終わる、死に逃げに近い終わり方になっている。

ただし、現実的には自らの意思で心神喪失に陥ってから罪を犯した場合は「目的において自由な意志」が存在するため、「自らの意思で心神喪失に陥った」ことを証明できたら即有罪となる(でなければ犯行前にを呑み、後は「酔っていたので覚えてない」と言うだけで全て無罪になれる)。

ましてや、本作の事案のように裁判終了後に即健常者に戻っていれば、無罪判決を勝ち取るのはもはや不可能になる。
結局、これだけの命を奪ってしまえば最後は自ら責任を負うことを残りの人生すべてと引き換えに放り出すか、おとなしく縛り首になるかのどちらかしかない。人を殺すとはそういうことなのだ。

ではなぜ39条は心神喪失者を罰しないのか?

最初に書いておくが、刑罰というものは被害者感情をぶちまけた報復行為ではない。それは西部劇マフィアの世界の話であり、現代日本において他人の法益を侵害した人間が自己の自由や財産を剥奪されるのは、「自分自身の所有するそういった法益(牢屋に閉じ込められず、金も奪われないということ)を護る自由」を自ら率先して放棄したからのしかかってくるわけである。だから罪を犯すということは、たとえそれがどんな大義名分があろうが自らを苦しめる行為に他ならないというわけだ。

で、話を元に戻すと、幼い子供や「そういう人たち」は「自己の法益を護るという行為」が存在すること自体全く分かっていないので、結果として「罪を犯さない自由」を選べないのだ。これが「責任能力の有無」といわれる問題だ。

例えば、みんなが何らかの方法で異国に辿り着いて、たまたまミミズを踏んで殺してしまったとしよう。そこでその国の住民にみんなが捕えられ、「我らの国の聖獣であるミミズ様を殺した貴様は死刑だ」などと言われたとする。その時みんなはどう反論する?

・・・うん、わかってる。人の命と虫の命を比べてはいけないことくらいは。だが、みんなは「ミミズを殺す」という行為が全く悪い事だともいいことだとも思っていない。そこに責任能力が生じるか? 罰を下していいものか?

39条とは、単に責任能力のない者を野放しにして被害者を泣き寝入りさせるという目的で制定された条文ではない。まして差別を正当化する法律なんぞでは断じてない。刑法という概念の最も根幹に当たる問題を抉り出しているのが39条に他ならないのだ。

なぜ公式に言及されないのか

作品内では、「精神異常者=社会に害をなす危険な怪物」と描写され、人権を享有する人間とみなされていない。そのため、精神異常者は社会から排除・隔離すべきものとされ、終盤の的矢所長の「日本ほど精神異常者が野放しになっている国はない、政府は対策を講じるべきだ」という発言へと収斂していく。
現在の人権感覚ではかなり危うい作品に見えるが、制作・放送された1969年当時の一般的感覚はこのようなものであった(よって、本作品の制作者たちが特に差別的な考え方の持ち主であったわけではない)。1964年に発生した「ライシャワー駐日米大使刺傷事件」(駐日アメリカ大使が、精神異常の少年にナイフで刺され負傷した事件)が大きな問題となり、精神異常者を隔離するという観点から法律(精神衛生法)が改正されている。「精神異常者は危険な存在であり、排除・隔離すべきだ」という方向に社会が動いていたのだ。

封印に至る経緯は、多くの点で『ウルトラセブン』第12話「遊星より愛をこめて」と対照的だ。第12話は、放送から3年後の1970年に封印された。被爆者団体の抗議から円谷プロの封印の決定までは報道され記録に残っている。家庭用ビデオデッキが普及するはるか以前に封印されたため、本放送・再放送の録画やVHS・LDの販売は当然不可能であった。その後はマニア向けの上映会や、同じくマニア間で流通していたビデオを入手する以外に視聴する手段がなかった。映像は封印されたものの、円谷プロ公式の書籍で明確に、あるいはほのめかす程度で取り上げられることもある。 

一方、「狂鬼人間」は放送から26年後の1995年に封印された。直接には、某団体からの円谷プロや満田かずほ監督への強硬な抗議が原因でLDボックスの回収→封印へ至ったとされる(安藤健二(2004)『封印作品の謎』太田出版)。だが、その経過については一切公表されていない。それまでは再放送やVHS・LDの販売が正規に行われており比較的容易に視聴できたが、映像の封印後は円谷プロ公式の書籍でも言及されていない。その徹底した秘匿措置は、第12話をはるかに上回ると言ってよい。

なぜ円谷プロは「狂鬼人間」に対して徹底した秘匿措置をとっているのか。それは、作品の内容に大きな弱みを抱えているためと思われる。「遊星より愛をこめて」が封印された原因は、「被爆者を怪獣扱いしている」という抗議を受けたためであった。これが誤解であることは明らかだが、当時の事情から円谷プロは作品を封印せざるを得なかった。しかし、「被爆者を怪物として扱うような差別的な内容ではない」と判断し、映像は公開できなくとも書籍上での言及は続けているものと思われる。一方、「狂鬼人間」は「精神異常者を怪物扱いしている」という批判を避けることができない。前者は内容それ自体には弱みがないが、後者は内容それ自体に問題を抱えている。同じ封印作品であっても、言及がより困難になるのは必然だ。

「狂鬼人間」の封印が将来に解除される可能性はもはや望めない(円谷プロにとって、強い批判を受けてまで「狂鬼人間」を復活させる利点が特にない)。過去に販売された正規品が存在する以上、合法的な視聴が不可能になることはない点で、他の多くの映像系封印作品と比して恵まれているといえる。

関連項目

法律 タブー 欠番 円谷プロ サイコホラー 空想法律読本
遊星より愛をこめて スペル星人

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