イラストは関係性の深い艦隊これくしょんの艦娘達を使用している。
概要
1945年4月7日、沖縄への水上特攻を目指して進撃する戦艦大和を旗艦とする第一遊撃部隊(第二艦隊)をアメリカ海軍第58任務部隊(空母機動部隊)が迎撃した事で生起した。
経緯~徳山湾での待機まで~
日本海軍の状況
1944年10月後半に行われたレイテ沖海戦によって日本海軍連合艦隊は戦艦武蔵、空母瑞鶴、重巡愛宕などの主力艦を喪失し大規模な艦隊を編成して出撃させる力を失っていたが呉で威容を誇っていた戦艦大和を始めとしてまだいくらかの戦力を保持していた。
しかしその実態は燃料不足で満足な訓練もままならない状態で大和と軽巡矢矧を旗艦とする第二水雷戦隊以外は一部の駆逐艦、潜水艦、海防艦などの小艦艇が行動を行っており戦艦長門、榛名、航空戦艦伊勢、日向、重巡利根、軽巡大淀、空母天城、葛城などの大型艦は呉などに係留されて浮き砲台となっていた。
当初は大和も係留される予定だったが1945年2月に連合艦隊司令部は第二艦隊を特攻に使用したい意向を明らかにした為大和と二水戦は係留されなかった。
大和呉出港。徳山湾へ
1945年3月末にアメリカ軍が沖縄への侵攻作戦を開始したが、それに先立つ3月17日に第一遊撃部隊に出撃準備命令が発令され3月26日に天一号作戦が発令されて豊後水道を通過して佐世保への前進待機命令が下り第二艦隊は佐世保への移動準備に入った。連合艦隊作戦参謀三上作夫中佐は佐世保に待機させた大和を囮として敵機動部隊を引き付け基地航空部隊によって叩く事を企図していたが鹿屋にいた第五航空艦隊司令長官宇垣纒中将(マリアナ、レイテの両海戦において大和の所属する第一戦隊を指揮)に「小細工が通用するはずもなく笑止千万。内海待機が適当」と評されるなど反対意見が少なくなかったものの28日に準備が完了した大和以下は29日に呉を出港して佐世保へ向かいだした。
しかし28日に敵機動部隊接近の報がもたらされ、第二艦隊は徳山湾で待機となったが移動中の3月29日午後5時26分には周防灘で駆逐艦響が機雷に触雷して同行出来なくなり応急修理の後に呉へ帰投した。
大和を徳山で待っていたのは二水戦の旗艦矢矧、第十七駆逐隊磯風、浜風、雪風、第二十一駆逐隊朝霜、霞、初霜、第四十一駆逐隊涼月、冬月の9隻で、これに大和を加えた10隻が日本海軍最後の艦隊だった。他には軽巡酒匂も参加を予定されていたが中止となった。
沖縄へ出撃~生還の望めぬ海へ~
4月1日、アメリカ軍が沖縄本島に上陸して沖縄戦が始まったがこれに対して日本軍側は航空特攻作戦菊水作戦の発動を4月6日に決定するが硫黄島同様の持久戦を主張する現地部隊と総攻撃によって大打撃を与え一気に講和の戦略を主張する内地の大本営との意見がわかれており作戦方針が統一されていなかった。
そんな状況の4月3日、第二水雷戦隊で会議が行われ下記の3つの選択肢が検討された。
1.航空作戦、地上作戦の展開に関わらず沖縄に突入し、最後の海戦を実施する。目的地到達前に壊滅必至。
2.好機到来迄極力日本海朝鮮南部方面に避退温存す。
3.陸揚可能兵器弾薬人員を揚陸、陸上防衛兵力とし、残りを浮き砲台とす。
二水戦は第3案を「最も有利なる案」として第二艦隊司令長官伊藤整一中将に意見具申する。伊藤中将以下第二艦隊司令部も賛成で連合艦隊司令部に意見具申しようとしたが連合艦隊では第二艦隊の思いもよらない事態が進行していた。
レイテ沖海戦の時に艦隊突入作戦を考案した神重徳大佐が大和以下の沖縄特攻作戦を立案し、九州へ出張中であった草鹿龍之介参謀長の不在時に司令長官豊田副武に直接決裁を仰ぎ大和の出撃が決定されてしまう。
軍令部次長小沢治三郎は「積極的なのはいいが、それはもはや作戦と呼べるのか」と、再考を促させ「片道燃料分しか燃料供給せず」と通告したが連合艦隊側が作戦決行を主張したので「豊田長官がそうしたいという決意ならよかろう」と了解を与えている。
連合艦隊参謀長草鹿中将は自分の不在時に決定された作戦に憤慨したが特に反対もせず4月6日、作戦参謀三上中佐と共に徳山湾の大和を訪れる。この時作戦に納得がいかなかった伊藤に対して草鹿が「一億総特攻の魁となって頂きたい」と伊藤に告げたと言われる。
第二艦隊の出撃の為徳山の燃料タンクでは底に溜まっていた帳簿外の燃料すらも集めて搭載したが、出撃に燃料を回す為輸送船団の護衛艦の燃料の割り当てをカットする連絡を受けた海上護衛総隊司令部参謀の大井篤は「国をあげての戦争に、水上部隊の伝統が何だ。水上部隊の栄光が何だ。馬鹿野郎」と軍令部の海上物資輸送への理解度のなさに激怒したという(大井は後に大和の生存者の集まりでも大和を非難し生存者達を絶句させた)。しかしこの燃料があったからこそ残存艦が佐世保に帰投する事が出来たと証言するものもいる。
かくして4月6日15時20分、3千を超える乗組員と共に大和は生還を望めぬ海へと出撃する。
16時10分、艦隊司令長官伊藤整一中将より全艦に訓示が発せられた。
「神機将ニ動カントス。皇国ノ隆替繋リテ此ノ一挙ニ存ス。各員奮戦激闘会敵ヲ必滅シ以テ海上特攻隊ノ本領ヲ発揮セヨ」
このような悲壮の決意を胸に第二艦隊は徳山湾を後に南へと進撃していく。
アメリカ軍の対応
アメリカ海軍側は暗号解読と偵察情報から第二艦隊出撃を察知し、艦隊への魚雷攻撃を禁止した潜水艦を哨戒の為豊後水道に配置していた。艦隊司令長官レイモンド・スプルーアンス大将は水上艦隊による夜戦での大和撃沈を企図してモートン・デイヨー少将指揮の旧式戦艦部隊を迎撃に派遣するが機動部隊の司令官マーク・ミッチャー中将はかつての武蔵撃沈を確認出来なかった事もあり戦艦に対する航空機の優位性を証明できる最良の機会と考えていた。その為三個の空母部隊を大和攻撃の為に集結させた。4月7日の朝、索敵機が大和を発見した後、スプルーアンスに第二艦隊をデイヨーと自分のどちらが攻撃するべきか問いYou take them(貴官が やつらを やれ)という返答を得た。その為、大和が敵戦艦との砲撃戦を行う機会は最後まで訪れなかった。
沖縄に向けて
4月6日夜 豊後水道
沖縄を目指して豊後水道を南下していた第二艦隊では砲撃訓練と大和を標的にした雷撃戦の訓練が行われていた。
20時20分、豊後水道に配置されていたアメリカ潜水艦が第二艦隊を発見。電文でアメリカ艦隊に通報したが暗号ではなく平文で「ヤマト」と記していたので日本側も敵潜水艦の存在を察知したが攻撃を行う前に見失ってしまった。
4月7日朝 大隅海峡通過、偽装航路を中止して沖縄本島へ
4月7日の朝6時、艦隊は大隅海峡を通過し偽装航路をとって東シナ海を西に航行していた。7時過ぎに第五航空艦隊の宇垣中将の命を受けた零戦隊が艦隊上空に現れわずかな時間ではあったが護衛を行った。しかし急遽出た命令であった為に中途半端な護衛になってしまった。零戦隊が帰投したのと入れ替わるようにアメリカ軍のマーチン飛行艇が艦隊に接触、第二艦隊の位置が判明してしまった。
零戦隊が現れる直前には駆逐艦朝霜が機関故障を起こして艦隊から落伍し、12時21分にアメリカ艦載機の攻撃で沈没、総員戦死した。
8時15分、敵偵察機の接触を受けた第二艦隊では大和の主砲射撃で追い払おうとするも失敗した為これ以上は無意味と偽装航路を中止、沖縄本島目指して南下を開始する。
巨大戦艦、最後の戦い
最後の食事
偵察機からの報告を受けたミッチャー中将は10時から10時半にかけて指揮下の機動部隊から約400機に及ぶ攻撃隊を2波に分けて出撃させた。
一方第二艦隊は11時35分に大和の対空電探が艦載機の大編隊を探知。対空戦闘用意が発令され全艦の乗員が配置に着く。第二艦隊の昼食は戦闘食となり敵機来襲までの僅かな間に乗員に握り飯等が配られた。
そして乗組員の多くが食べ終えた12時30分頃、アメリカ軍第1波攻撃隊約200機が艦隊上空に襲来し激闘の幕が切って落とされた。
第一次攻撃
第二艦隊はアメリカ軍攻撃隊の上空到着時には対空戦闘準備を完了していたがこの日の天候は分厚い雲が広がっており照準を目視で合わせる日本側には非常に不利な状態だった。しかしこの視界不良はアメリカ側も同じであり艦隊の位置確認や衝突回避の為にすぐには攻撃できなかったが、12時34分、第二艦隊旗艦大和が前部の第一、第二主砲より三式弾を発射(発射しなかった説有り)し対空戦闘が開始された。
12時41分、アメリカ軍急降下爆撃機の爆撃で大和の後部艦橋並びに後部副砲部に爆弾が命中して火災発生。12時45分に駆逐艦浜風に爆弾が命中して航行不能となり直後に魚雷が命中して沈没。12時46分には軽巡矢矧にも魚雷が命中して航行不能となる。2隻が航行不能になったのと同じ頃、戦艦大和の左舷に1本目の魚雷が命中する(アメリカ軍はレイテでの武蔵攻撃の戦訓から転覆を狙って左舷に攻撃を集中させたという説があるが現在までにそれを証明する物は見つかっていない)。13時8分には駆逐艦涼月の前部に爆弾が直撃して大破して艦隊から落伍する。大和は魚雷命中により左舷に傾斜したものの注水によって回復し戦闘を続行した。
第二次攻撃
13時20分に第2次攻撃隊が艦隊上空に来襲し大和に集中攻撃を開始した。攻撃隊はまず機銃掃射と爆弾で左舷の対空火器の破壊と人員の殺傷を行い続いて雷撃隊が魚雷攻撃を行った。大和の左舷に次々と魚雷が命中して一気に傾斜が増し始め転覆の危機に陥りだした。13時25分、通信機能を破壊された大和は自身を守るべく寄り添っていた駆逐艦初霜に通信代行を依頼し、13時33分、右舷側のボイラー室と機械室に注水する。この注水によって傾斜はなんとか回復したものの右舷の機関が使用不能となったので大和の速力は10ノットまで低下しさらなる雷爆撃の標的となってしまう。この間駆逐艦霞が直撃弾2発を受けて航行不能、第一次空襲で航行不能になっていた軽巡矢矧がさらなる被弾で14時5分に沈没。二水戦司令部移乗の為矢矧に接近していた駆逐艦磯風も被弾して航行不能と艦隊の被害が加速度的に増加していた。そんな中残った駆逐艦初霜、雪風、冬月の3隻は大和の周囲に展開し大和を守る為に必死の対空射撃を続けていたが満身創痍の巨艦の沈没を止める手段はもう残されていなかった。
そして・・・
巨艦沈没
14時10分頃にアメリカ空母ヨークタウン(エセックス級)の雷撃隊による右舷への複数の魚雷命中が致命傷となり度重なる注水で限界を迎えていた大和の傾斜が急速に大きくなった。大和副長能村次郎大佐が応急指揮所から艦橋に上がり大和艦長の有賀幸作大佐に総員退去を進言、大和前艦長で第二艦隊参謀長の森下信衛少将も同意見を言ってきたので有賀大佐は総員退去を発令する。大和の沈没が避けられない事を知った伊藤整一中将は作戦の中止と残存駆逐艦に乗員の救助を命じ自らは艦橋下部の長官控室に降りて行った。有賀は「総員最上甲板」を号令機で艦内に伝達していたが既に傾斜が50度に達し電源の喪失で暗闇となった複雑な艦内を移動して脱出する事が出来ずに多数の乗員が閉じ込められたまま戦死した。
防空指揮所のすぐ傍にある方位測定室にいた電探所属の山口甚之助はこの時各部署から伝声管で指揮所に入ってくる「ドアが開かないっ!!」「ドアが開きませんっ!!」という悲惨な声を証言している。
右舷三番高角砲の亀山利一は大和の煙突に多くの乗員が吸い込まれていったのを目撃した。
第一、第二主砲は左舷への傾斜でドアが開かずに総員戦死したが第三主砲は逆にドアが開く方向だったので滝本保男のように脱出して生還出来た者がいた。
高角砲と機銃は上記の亀山のように被害の少なかった右舷側の方が多く生還出来た。
14時20分に大和が横転を開始、艦橋の上部の者は配置を離れたらすぐそこが海だったと証言している。14時23分、北緯30度43分、東経128度04分の地点で大和は完全に転覆し海中に姿を消したが、直後、主砲弾薬庫の誘爆と機関の水蒸気爆発が起きて凄まじい大音響の爆発が発生し巨大なキノコ雲を残して水深345mの海底に沈んでいった。
この爆発で甲板部分、特に前甲板周辺にいた乗員が多数死亡したものの大和と共に海中へ引きずり込まれた第二艦隊参謀長森下信衛をはじめ多くの者が海面に押し上げられた。しかし彼らには更なる試練が待っていた。
最初に試練を課したのは他ならぬ大和だった。正確に言えば大和沈没の大爆発によって生じた破片である。爆発によって舞い上がった高熱の破片が海面を漂う乗員達に降り注いだ。あるものは手足を切断しあるものは頭部を切り取られ一瞬にして絶命して死んだ仲間の所へ送られた。
次の試練はアメリカ軍の機銃掃射であった。体力を喪失しかわす事も出来ない乗員達はただ撃たれるに任せるだけであったが中には水中に潜るなどの行動を繰り返して回避した者もいた。こうして乗員の1割にも満たない276名が駆逐艦に救助されて生還する事が出来た。
第二艦隊の残存艦
伊藤中将が戦死し、二水戦司令官の古村啓蔵少将(武蔵の2代目艦長、森下、有賀とは海兵同期)は漂流中の状況で先任司令官である第四十一駆逐隊司令の吉田正義大佐は15時52分に連合艦隊司令部あてに「数次にわたり、敵艦上機大編隊の攻撃を受け、大和、矢矧、磯風沈没、浜風、涼月、霞航行不能、その他各艦多少損害あり、冬月、初霜、雪風を以って生存者を救助の後、再起を図らんとす」と発信した。17時20分に初霜に救助された古村少将も作戦続行の為に暗号を起案していたが17時50分に連合艦隊司令部から作戦中止と佐世保への帰投命令を受けたので残存艦に帰投を命じる。霞は冬月に磯風は雪風に処分命令が下され乗員救助の後に両艦は処分された。艦首を大破していた涼月は後進をもって単独で佐世保に向かったが佐世保ではすでに沈没したと思われていたので驚きをもって迎えられ急いで入渠作業が行われたもののドック内で力尽き遂に擱座してしまった。
その後
批判
帰投した第二艦隊の残存艦などから今作戦にたいする批判が相次いだ。第二水雷戦隊は戦闘詳報で事前の打ち合わせもなく急遽決定した特攻作戦を厳しく批判し、大和の戦闘詳報では、「戦況逼迫せる場合は兎に角焦燥感にかられ、計画準備に余裕なきを常とするも、特攻兵器は別として、今後残存駆逐艦等を以てこの種の特攻作戦に成功を期せんが為には慎重に計画を進め、事前の準備を可及的綿密に行うの要あり。『思いつき』作戦は精鋭部隊(艦船)をもみすみす徒死せしむるに過ぎず」と記し、戦争中に大和型戦艦と関わっていた宇垣中将は自身の日記の「戦藻録」で『嗚呼!』と嘆き『全軍の士気を昂揚せんとして反りて悲惨なる結果を招き痛憤復讐の念を抱かしむる外何等得る所無き無暴の挙と云はずとして何ぞや』と記して日本海軍上層部を批判している。
海軍の終焉
この海戦は、日本海軍の水上戦闘艦艇の壊滅と終焉を意味するものとして広く認識されている。これ以降、水上部隊による攻撃作戦は極度の燃料不足のために行われず、戦艦長門を筆頭に伊勢、日向、榛名など残存主力艦は長門を除いて7月の呉軍港空襲にて大破着底しここに世界第3位の実力を誇った大日本帝国海軍は消滅した。
関連項目
五十鈴(艦隊これくしょん) 同日に沈んだ軽巡洋艦