経歴
戦前~戦中
今村均将軍 1886~1968年。
裁判官の子として仙台に生まれた。陸士を経て1915年に陸軍大学校を首席で卒業。19年からイギリスに駐在、帰国後参謀本部員、インド駐在武官、30年8月に参謀本部作戦課長となる。満州事変後、関東軍と対立したが、その後、連隊長、旅団長、関東軍参謀副長、そして38年に師団長となる。大東亜戦争が始まると、第16軍司令官としてジャワ攻略を指揮、42年11月以後第8方面軍司令官としてラバウルに赴任した。
戦後
今村中将(この頃は大将)は敗戦後、オーストラリアによって戦争裁判にかけられ、10年の刑を宣告された後、その身柄はバタビアのオランダ政府に移された。48年5月のことである。
オランダ側の裁判は、予想どおり今村に死刑を求刑した。今村がジャワを占領した後、入獄中であった独立運動のリーダー、スカルノ(後のインドネシア初代大統領)を釈放したので、スカルノにとっては大恩人である。今村が死刑を求刑されるに違いないと思ったスカルノは、密かに使いを獄中に送り、刑場に行く途中で身柄奪還の計画があるので、襲撃隊の言うとおりにしてほしいと伝えた。しかし今村はその提案を断っている。部下が無実の罪で死刑になっているときに、指揮官であった自分だけが逃げるわけにいかないという責任感があったからだ。
オランダ側の裁判では、告発された罪状がすべて事実無根とわかって無罪となり、オーストラリア側の10年の刑に従い、東京の巣鴨に送られた。
巣鴨拘置所に入った今村は、オーストラリア裁判で有罪となった部下たちが服役している赤道近くのマヌス島で、部下たちと一緒に服したいという請願運動を起こした。連合軍総司令官マッカーサーは感心し、「日本に来てからはじめて真の武士道に触れた思いであった。私はすぐに許可するように命じた」と語った。
今村大将は1954年に釈放され、68年に82歳の生涯を閉じた。
著書
- 自伝『私記・一軍人六十年の哀歓』
- 『今村均回顧録 正・続』(芙蓉書房出版、新版1993年)
- 我ら戦争犯罪人にあらず 復刊「幽囚回顧録」(産経新聞出版)