日本庭園とは
日本の伝統的な様式で設計・構成された庭園である。和風庭園とも呼ぶこともある。
左右非対称で自然景観をモチーフとしたデザインが特徴であり、池・島・流れ・築山・庭石などとそこに植えられる植物、充分な広さがある場合は園路や四阿などの簡素な建築物、石灯籠や手水鉢といった設備が配される。
最初は朝鮮半島、後には中国からの直接の影響を受けてながらも独自の発展をとげ、近代になっておよそ現在の形になった。
歴史
飛鳥・奈良時代
文献上も考古学的にも日本の庭園史は飛鳥時代(592年〜710年:6世紀末〜8世紀初め)を遡らない。この時代、庭園はしまと呼ばれていた。日本で確実に最初に造営された庭園は飛鳥京跡苑池など飛鳥時代のものである。飛鳥京跡苑池は7世紀後半に整備され、10世紀に至るまで機能していたと推測されている。飛鳥京跡苑池からは庭園の管理者の存在を示すと思われる木簡も発見されている。この遺跡は天武天皇が685年に行幸したとされる白錦後苑(しらにしきのみその)では無いかとの指摘もある。
また蘇我馬子(551年?〜626年)は邸宅に島のある池を持つ庭園を営んだので嶋大臣(しまのおとど)とも呼ばれたとされる。この馬子の屋敷跡と推定されている島庄遺跡からは実際に苑池のある遺跡が発見されている。これらとのかかわり合いは不明ながらも、小規模な苑池とみられる遺跡が明日香村ではほかにもいくつも発見されている。
これ以外にも日本書紀には推古天皇と斉明天皇は須弥山(しゅみせん)と呉橋(くれはし)のある庭園を築いたとする記述があるが遺跡は確定していない。ただ、こうした歴史書の記述や遺跡から飛鳥時代の皇族や有力な貴族は庭園を営んだ事がうかがえる。
この時代の庭園遺跡の特徴として四角形の池の池が造られた。池にはしばしば中島が造られ、あるいは須弥山を模した石造物が置かれて、それはときに噴水になっていた。池は平らな石が敷き詰められていて、石の護岸がされていた。池の周りや中島にはツツジの仲間やアセビが植えられていたらしい。他にもシダレヤナギや松(アカマツと推測される)、ハスが植えられていた可能性がある。
これら飛鳥時代の庭園遺跡は同時代の朝鮮半島の庭園遺跡とよく似ている事から、百済など朝鮮半島からの渡来人の手によって築造されたと考えられている。様式としては中国の神仙式庭園の影響を受けており、間接的にこれが輸入されていたと言える。
飛鳥時代の終わり〜奈良時代に入る少し前から庭園の様式に変化が見られ、池は自然海岸の磯を模したと思われる庭石を配したものとなり、形も四角形では無くなり州浜があり曲線を持った非整形に変わる。また曲水の宴を開くために必要な曲がりくねった流れも造られるようになる。築山も造られるようになった。植えられる植物の種類が増えた。平城京に都を遷した奈良時代になると庭園はいっそう盛んに営まれるようになり、文献に現れる量も増える。
この時代の遺跡としては平城京左京三条二坊宮跡庭園が代表的なものである。この他にも長屋王(ながやのおう)の邸宅とそれに付随する庭園などがある(余談ながら、この遺跡は奈良そごうデパート建設によって潰されてしまった。その後そごうが潰れたので長屋王の呪いと噂された)。
また主に観賞用の植物を植えた場所を住宅近くに設けるようになりやど(屋戸・屋外・屋前・宿・夜度・耶登などと書かれた)と呼ばれた。そしてこの時代には生垣も造られるようになった。
奈良時代になると庭園に植えられる植物の種類も増える。マツ(アカマツと推定されている)・ヒノキ・サクラ・ツバキ・シダレヤナギ・カエデ・タケの他、タチバナ・モモ・ウメ・ナシといった花の美しい果樹類、ツツジ類・ハギ・ヤマブキと言った灌木、フジのようなツル性樹木、ハス・アシなどの水草、ススキ・ケイトウ・ナデシコ・ユリといった草花が栽培されていた。生垣にはウツギが使われていた。
後世の日本庭園の基礎となるような要素が見られるようになったのが、飛鳥時代の終わり〜奈良時代の庭園の特徴と言えよう。
平安時代
平安時代になると日本の庭園文化は最初の興隆期を迎える。都の屋敷に庭園を造るだけでなく、郊外に離宮や別荘を設けてそこで庭園を営むこともおこなわれるようになった。
この時代の庭園は建物の南側に儀式や催し物をおこなうための広場(南庭)があり、その南側に流れ(遣水)が注ぐ中島のある池があり、池は庭石や州浜で縁取られていた。さらに南に築山が築かれた。また敷地内には馬場などもあった。建物や廊下に囲まれた小さな敷地は壷庭と呼ばれ、そこにも意趣をこらした小庭園とされた。
平安時代の庭園はしばしば四神相応を意識してデザインされたと言われるが、池の位置はともかく遣水や門の位置は方位とは関係無く配置されている例が少なく無いため、たとえ意識されたとしても絶対条件ではなかったと考えられる。例えば藤原道長の息子の頼通は高陽院と言う屋敷を1021年に改築したが、建物は池にぐるりと囲まれていたという。
この時代の庭園は痕跡程度しか残っておらず、わずかに神泉苑、大覚寺の大沢池などがある程度であり、遺跡では鳥羽殿跡などがあるが国指定史跡の標石があるのみで復元などはされていない。
平安時代の庭園は左右非対称が普通であったが、浄土式庭園(浄土庭園)と呼ばれる寺院に付属しているものには左右対称形に近いものが見られる。このタイプの庭園は池が広く、中島を経由して寺院本堂に至るように設計されているのが特徴である。このデザインは曼荼羅図がモチーフになっていると言う意見もあるが、たびたび雨乞いなどの祈禱などがおこなわれた平安初期の庭園である神泉苑の推定復元図も橋を欠くものの似たような構成であるから、むしろ左右対称の寺廟建築のスタイルに従ったものと見なした方が自然であろう。
浄土式庭園(浄土庭園)は平安時代以後も鎌倉時代まで造営され、寺社と言う聖域と結びついていたこともあって今日まで良好な状態で残っているものが少なく無い。浄土式庭園(浄土庭園)の代表例に平等院鳳凰堂、金沢山称名寺、白水阿弥陀堂などがある。
この時代は庭園に色鮮やかな花や紅葉する木々を植えたのも特徴である。サクラに人気が集まり盛んに植えられ、フジ・センダン・キリ・ノイバラ・タチバナ・ナシ・モモ・スモモなどが植えられた。キク・ハス・キキョウ・カワラナデシコ・リンドウ・ススキ・オミナエシ・フジバカマ・シオンなどの秋草が好まれ、モミジ・ツタなどの紅葉が美しい木も愛好された。アカマツ・シダレヤナギ・アオギリなどの樹木、ビワ・カキといった果樹も植えられた。種類についてこだわりが見られるようになり、ウメは特に紅梅が流行し、珍しいキクの品種を求めて探すこともされた。
こういった平安時代の皇族や貴族の美意識と相まって、後世に続く日本庭園の原型が形作られていった。
鎌倉時代
室町・戦国・安土桃山時代
江戸時代
近代(明治・大正・昭和初期)
現代(昭和・平成〜)
代表的な様式
回遊式庭園
露地
枯山水
日本庭園に見られる設備・構造物
池・流れ・滝
庭石
築山
園路(飛石・延段など)
僧都(そうず)
一般的にはししおどしの名で知られている。
つくばい・縁先手水鉢・水琴窟
つくばい・縁先手水鉢は手を洗って身を清めるためのもの。つくばいは露地に特有のものだが、和風のイメージを出すために関係無く造られる場合もある。
つくばいは手水鉢(ちょうずばち)を中心にして、手前に前石(まえいし)・手燭石(てしょくいし)・湯桶石(ゆおけいし)・水門(すいもん)から構成される。この他に水を汲むための柄杓が置かれている。
手水鉢は水を入れる穴がくり抜かれている石で、御影石などを加工して作る場合が多いが、自然に穴が空いた山石や石灯籠の笠などの石造物の転用も珍しく無い。何かをかたどることも多く、古銭の形を模して『吾只足るを知る』と彫られた知足のつくばい(オリジンは京都の龍安寺の茶室蔵六庵にある。徳川光圀の寄進とされるが定かでない)は特に有名なものであろう。
前石はつくばいを使うとき、使う人が立つ足場になる石である。当然、手水鉢の前に据えられる。
手燭石は夜に茶会などを催す際に灯りとなる手燭(持ち歩きできるようになっているキャンドルスタンド)を置く石、湯桶石は冬に茶会をする時に冷たい水では来客が辛いので暖かい湯で手を洗えるように、お湯を入れた桶を置く石である。どちらを右にするか左にするかは茶道の流派によって違う。手燭石と湯桶石は利用目的上、上端が平らでなければならない。
水門は海(うみ)とも言う。手を洗う時の水が流れ落ちる、手水鉢のまわりの砂利や小石が敷き詰められている部分である。この下に水琴窟が仕掛けられている場合もある。
茶道においては主人が手水鉢にわざと大きな音を立てて水を注ぐ。この音は茶会の準備が整ったことを客に知らせるサインなのである。
縁先手水鉢は飾り鉢前(かざりはちまえ)とも言う。現在では日本庭園用のしつらえとなっているが、元をただせば今のような水道が無かった時代の手洗いなのでとうぜん露地に限定したものではなかった。普段使いに便利なように使用者が立って使うことを前提に造られるものであり、縁側に接して設置される。
縁先手水鉢は手水鉢・蟄石(かがみいし)・水汲み石・清浄石(せいじょういし)・水揚げ石・水門から構成される。
手水鉢はつくばいの手水鉢と役割は同じだが、高さが必要とされるので縦に長い形のものが利用される。あるいは台になる石を据え、その上に手水鉢を乗せる。
蟄石は軒下に使った水がかからないように防ぐ石で、この石は他の石とは異質な石を用いるのが規則になっている。
水汲み石は昔、高貴な人が手水鉢を使う際に従者がこの石の上に立って、柄杓で水を汲んで貴人の手に注ぐための石。上に人が立てないといけないので上端は平らで、園路に接している。
清浄石は水汲み石とのバランスを取るために配される石で、修景目的の石である。
水揚げ石は手水鉢を掃除したり、水を注いだりするなど手入れをするために乗る石で、手水鉢の後ろにある。水汲み石同様、上に人が立てないといけないので上端は平らで園路に接している。
これらの手水鉢の側には鉢請木(はちうけのき)と、それとバランスを取るための鉢囲木(はちがこいのき)いう樹木や下草を植える。鉢請木・鉢囲木にはナンテン・ヒサカキ・アオキ・サツキ・クマササ・ハラン・トクサなどが用いられる。
水琴窟(すいきんくつ)はつくばいや縁先手水鉢を使った際に水門に流した水が地中に伏せた甕の中に滴り落ちることで音を反射させて、きれいな音が鳴るようにした仕掛けである。日常に少しでも楽しみを増やすための粋な装置と言えよう。
竹垣
生垣
灯籠
建築物(四阿・茶室・外待ち合い)
平安時代後期に著された「作庭記」という書物には当時の庭園の作り方が詳しく残されている。
自然の地形や岩石のあり方に従い庭を造営するという日本庭園の基本的な考え方は同書で既に確立されており、浄土信仰や禅宗の普及による浄土式庭園や枯山水の庭も大きくはそれを踏襲している。
江戸時代には将軍家や大名により庭を回遊して楽しむことを目的とした池泉回遊式庭園が多く造営された。
関連タグ
築山 池 庭石 竹垣 水琴窟 ししおどし 燈籠 あずまや/東屋/四阿 飛石/飛び石