藤原鎌足とは、古代飛鳥時代~奈良時代に実在した政治家である。
旧名を中臣鎌子、後に改名し中臣鎌足となり、死の床にあって藤原姓とを賜った。
概要
皇極天皇の時代、蘇我氏の専横が頂点に達していた。このことに不満を抱いていた王族(軽皇子(皇極天皇の同母弟)、中大兄皇子(皇極天皇の皇子))や群臣(中臣氏・阿倍氏など)たちは、蘇我氏の分家・曽我倉山田石川麻呂をも引き込み、蘇我氏打倒のクーデターを企てた。(このとき、鎌足は「蹴鞠の会」を利用して中大兄皇子に近づき、蘇我氏打倒の謀議を主導したといわれている)
皇極天皇4年(西暦645年)6月、「三韓進調」(朝鮮半島の三国(高句麗・新羅・百済)の使者を迎え、三国からの貢物が天皇に奉じられる外交式典)の日、剣を解いた蘇我入鹿が御前の座に着くと、石川麻呂が「三韓の上表文」を読んでいるときに、隠れていた中大兄皇子と臣下の者が入鹿に襲いかかり、天皇の眼前で入鹿の首を打ったという。
こうして、追いつめられた蘇我蝦夷は 自害し、蘇我氏本宗家は滅亡した。(乙巳の変)
皇極天皇の後を承けて軽皇子(孝徳天皇)が即位、中大兄皇子を皇太子とし、阿倍内麻呂を左大臣、蘇我倉山田石川麻呂を右大臣、クーデターの立役者となった鎌足は大錦(だいきん)の冠位を授け、内臣とした。『日本書紀』は鎌足の業績を高く評価し、宰相として諸官の上位に位置づけ、政策の立案、実施の要のように記述しているが、政権発足後の鎌足の事績については未詳の部分が多いといわれている。(笠原英彦『歴代天皇総覧』)
同年(皇極天皇4年)は大化元年に改め、12月には都を難波長柄豊埼に移した。
大化2年(646年)1月、「改新の詔」が発せられた。
- 第1条…子代の民、各地の屯倉や臣、連、伴造、国造、村の首長の支配する部民、豪族の持つ各地の土地の廃止が謳われ、大夫以上に食封が与えられた。
- 第2条…京師が設けられ、機内の国司、郡司、関塞、斥候、防人、駅馬、伝馬を置き、鈴契を作り土地の区画が定められた。以下地方行政単位が規定された。
- 第3条…戸籍、計帳、班田収授の法を定める。
- 第4条…それまでの賦役を廃止して新たな田の調が行われるようになった。
ほかに旧来の厚葬などの習俗が改められ、品部の廃止や新冠位制の制定が行われた。(笠原英彦『歴代天皇総覧』)
白雉4年(653年)、皇太子・中大兄皇子が都を大和に移すことを奏上、天皇がこれを聞き入れなかったため、皇太子は先帝・皇極天皇、間人皇后、大海人皇子らをともなって大和の飛鳥河辺行宮に入り、公卿、百官らはみなこれに随行した。
同年、置き去りされた孝徳天皇は失意のうちに崩御、翌斉明天皇元年(655年)皇極天皇が再び皇位につくことになり(重祚)、飛鳥板葺宮で即位した(斉明天皇)。
斉明天皇6年(660年)、朝廷と友好関係にあった百済から新羅と唐が連携して侵攻したとの報がもたらされる。天皇は即座に百済の要請を受け入れ、皇太子・中大兄皇子ら一軍を率いて博多の磐瀬行宮に入ったが、翌斉明天皇7年(661年)、同地で崩御した。
斉明天皇の崩御後、中大兄皇子は皇太子の地位にとどまり「称制」のまま、対朝鮮戦略の指揮をとった。天智天皇2年(663年)、皇太子は百済救援のために水軍を派遣、白村江の戦いで唐・新羅の大軍に大敗を喫した。
敗北を機に朝廷は国内体制の強化と国防の強化に乗り出すことになった。内政においては冠位制を十九階から二十六階へと改められ、官僚組織の整備に力がそそがれた。
一方で朝廷は、対馬、壱岐、筑紫に烽や防人を設置した。筑紫にはまた堤防を築造して水をたたえ、これを水城と称した。
天智天皇7年(西暦668年)1月、人心一新と国防に手を尽くした皇太子はようやく正式に即位することとなった(天智天皇)。
天智天皇8年(669年)10月、腹心として天智天皇に仕え、律令の編纂を主導していた中臣鎌足が病のため亡くなった。享年56歳。
このため、鎌足が主導した律は結局作られることはなく、近江令も法典としての体裁を整えるには至らなかった。(近江令は存在しなかったとの説もある)
天皇は鎌足を病床に見舞うと、鎌足は恐縮して外征の失敗をわびたという。
「 望むことがあれば何でもいうがよい 」という天皇の問いに、鎌足は「私の葬儀は簡素にしていただきたい」と答えたといわれる。
天皇は皇太弟・大海人皇子(後の天武天皇)を遣わし、鎌足に「大織冠」(だいしきのこうぶり)と大臣の位を授け、さらに「藤原」の姓を賦与したが、鎌足は間もなく病没した。
大織冠は「たいしょくかん」ともいい、最高の冠位のことである。
古代、この官位を授けられたのは鎌足ただ一人であり、ゆえに鎌足の異名ともなった。
これが藤原氏の起源であり、のちに鎌足の子孫が永きにわたり栄華を誇ることになる。
現在は奈良県桜井市の談山神社で祭神として祀られている。