概要
極東国際軍事裁判とも言う。
第二次世界大戦に勝利した連合国側が1946年から1947年にかけて、戦前・戦中の日本の指導者たちを“戦争犯罪人”として弾劾した裁判である。
しかしこの裁判は、国際法上のどの規定にも一切根拠が無く、さらには裁く側の判事や検察官が全て戦勝国から派遣されていたことなど、裁判が行われた当時から連合国側の専門家の間でさえ、その正当性を疑う声も少なくなかった(唯一の国際法専門家であった、インド代表で参加したラダ・ビノード・パール博士は、国内手続きのミスにより代表に選ばれたため、連合国側の息がかかっていなかった)
この裁判では東條英機元首相以下、“いわゆるA級戦犯”とされた28名が、「平和に対する罪」「人道に対する罪」で訴求されているが、当時のどの国際条約にもそのような罪は存在しておらず、事後法(裁く時には存在しなかった法律を、過去に遡って使用して罰すること。これは近代法の概念全てを否定することに繋がるため、どの国でもタブーとされている)によって行われたことであり、日本側の弁護にあたっていたアメリカ陸軍のベン・ブルース・ブレイクニー少佐は、法廷でその不当性について強く非難していた。
しかもこの裁判において、広島・長崎に原爆を投下し、罪無き民間人を大虐殺した連合国側の指揮官は、誰一人として訴追されていない。
一部ではこの裁判のことを“復讐劇”や“リンチ”と表現する人物も多い。
また、日本政府が無条件で受諾したポツダム宣言10条には「日本における捕虜虐待を含む一切の戦争犯罪人は処罰されるべきである。」と記されており、この一文が国際的にも正当な裁判であると主張できる論拠とされているが、これは形だけのものである。
戦時国際法では本来、戦争の勝ち負けに関わらず、両軍が公平に守らなければならないものであり、日本軍の捕虜虐待が裁かれるのであれば当然、連合軍の捕虜虐待も裁かれなければならない。
アメリカの飛行家チャールズ・リンドバーグが、自身の戦争体験を記した、『第二次大戦日記』には、連合軍兵士による、日本軍兵士への、おぞましい虐待・虐殺の様子が綴られている。
裁判とは称しているものの、その実は中立・公平の原則を一切守っていないデタラメな不当裁判である。
更に、GHQの司令官ダグラス・マッカーサー元帥は、1951年4月にトルーマン大統領に司令官を解任され帰国後、5月3日から5日までの3日間、上院軍事外交合同委員会での公聴会の宣誓証言をしており、その演説の中で第二次世界大戦での日本について、以下の発言をしている。
Their purpose, therefore, in going to war was largely dictated by security.
日本語訳
「彼らが戦争を始めた目的は、主として安全保障上の必要に迫られてのことだったのです」
上述の証言は、私的な場で言ったことでも自伝に書いたことでもなく、アメリカの軍事・外交政策を決定する最高の公の場での正式な発言である。
この発言は『マッカーサー証言』とも証されており、東京裁判(極東国際軍事裁判)の正当性を根本から覆す発言とされている。
ドイツとの比較
ナチスドイツもニュルンベルク裁判で「平和に対する罪」、「人道に対する罪」で裁かれており、このことに関してドイツは裁判の結果を受け入れて一切の弁解もしておらず、現在もヒトラーの著書である「我が闘争」は発禁処分を解除されていないことから比較されることもある。
しかし、日本とドイツでは戦後処理の形式が違い、日本が国家賠償を多数の国に行っているのに対し、ドイツは当時東西に分裂していたため国家賠償が出来なかったとして、個人補償という方法を採っている。
また、ドイツが行った個人補償は、ユダヤ人に対するホロコーストなどの非人道的行為に対する補償のみで、日本と違い旧交戦国のどの国とも講和条約を結んでいない。
更に、西ドイツのリヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー大統領は、自身の演説で「ヒトラーとナチスに罪がありドイツ人には罪は無く、ドイツ人の罪ではないが責任は負う」といううまの発言をしており、これはつまり「金は払うが罪は認めない」という意味である。
ユダヤ人の中には、このようなドイツの態度に怒り、保証金は受け取るべきではないという声もあったという。
この連合軍のドイツに対する処理が、日本に比べあまりにも違い過ぎるのは、白人の有色人種(日本人)に対する人種差別によるものとも言われている。