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高木守道の編集履歴

2015-09-25 20:55:24 バージョン

高木守道

たかぎもりみち

岐阜県出身の元プロ野球選手、野球指導者

概要

岐阜県岐阜市出身。

1941年7月17日生まれ。

1960年、県立岐阜商業高校から中日ドラゴンズに入団

正二塁手として活躍し1980年に引退、1986年に監督に就任するも1年で辞任。

1992年に再び監督になるも1995年に成績不振を理由に辞任、2012年、落合博満前監督が好成績にも関わらず更迭され、3度目の監督就任となったが、2013年に4位となり辞任した。


ネタ

寡黙な性格だが、実はキレるとそれはそれは恐ろしい。

  • 野球理論に関してものすごく自信を持っている。故にそれを否定されると、どんな相手であろうがかみついてしまう。そこから、あるプレーを巡って監督と大喧嘩したあげく、試合途中で合宿所にトンズラこいてしまったことがあった。しかも、誰ひとりそのトンズラに気付かなかったという。
  • 堀内恒夫から顔面にデッドボールを喰らい生死の境をさまよったことがあったが、その事を相当根に持っており、その堀内から頭に球をぶつけられて爆発、堀内に向かってヘルメットをぶつけて右肩を叩き壊し、「リベンジ」を果たしてしまった。
  • あまりに2塁ランナーを気にする先輩投手にあきれ、牽制球を足でマウンドに蹴り返してしまったことがあった。ただし、これは親交のある板東英二の証言であり、本人は「あれは足で止めただけ」と発言している。
  • 新聞記者の間では、「キレた時の守道さんは、仙ちゃんよりも恐ろしい」と恐れられた。さらに、本人は(かなり年を取ってからの話ではあるが)「俺は暴走老人だよ」と言ったことがある。

ルーキー時代、ファームの試合が終わり、パチンコ屋で暇をつぶしていたら、「中日スタジアムに来い」と言う館内放送があり、慌てて中日スタジアムの一軍の試合に出場、しかもその試合でホームランを放ってしまった。


1974年に中日が優勝を果たしたのだが、優勝記念イベントと、長嶋茂雄の引退セレモニーを行う予定の試合がかぶってしまった。そのため球団の首脳陣は「あの試合は控えで間に合わせとこ」と言うことになり、レギュラー陣は優勝記念イベントに参加するよう指示された。だが、実は県立岐阜商業高校時代に長嶋と出会っていた高木は、「長嶋さんに対する侮辱だ」と激怒、球団に対し「あの指示は取り下げて下さい。それが出来ないのなら、俺だけでもあの試合に出して下さい!!」と土下座した。だが、球団からは「おみゃー地元のファン無視する気か?そんなだちかん事抜かすなたわけー!!」と、けんもほろろに断られてしまった。結果、そのイベントに嫌々参加、その夜長嶋に電話で「引退試合に参加出来ずにすみませんでした」とわびを入れた(ちなみに星野仙一も、長嶋に電話でわびを入れている)。


1980年シーズンを最後に引退したが、その際、「王さんが引退したら、私がプロ野球で最年長になっちゃう。そうなるとそれ相応のプレーをしなければならないけど、私にはそれが出来そうにない。だから引退します」と話していた・・・・・・・あの、まだ張本勲がいますけど(王と同期、1981年に引退)!?喝だ喝!!


引退セレモニーに際し、名古屋鉄道が、当時の看板車両だったパノラマカーを使って、特別列車「サヨナラもりみち号」を走らせた・・・・・・・・たかが選手の引退で、そこまでやるか!?


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