宝治2年5月28日(1248年6月21日)~文永9年2月15日(1272年3月15日)
人物概要
鎌倉幕府第五代執権・北条時頼の長男として生まれる。幼名は宝寿。母は幕府女房・讃岐局。
9歳で元服し、はじめは『相模三郎時利』と名乗ったが、13歳の頃『時輔』と改名。長男でありながら時頼の正室の子である異母弟・相模太郎時宗より下に置かれ、さらには「弟・時宗を輔る」という意味を持つ名に改めさせられた。兄弟の順序は上より時宗、相模四郎宗政、時輔、相模七郎宗頼とされ、時輔は長男でありながら正室の子である時宗、宗政よりも下の第3位という位置づけであった。
弘長3年には鞠奉行となる。翌文永元年8月に時宗が幕府連署に就任すると、時輔は22年間空席となっていた六波羅探題南方に出向。その翌年には従五位下式部丞に叙任される。
文永5年2月、蒙古牒状が到来し、元寇の危機を前にして権力の一元化を図るため、3月に18歳の時宗が執権に就任。文永7年正月に六波羅探題北方で得宗支援者でもあった北条時茂が死去。その後2年間は後任が決まらず、自然と六波羅は時輔の影響を強くしたと見られる。
文永8年12月、北条義宗が六波羅探題北方に就任する。翌文永9年2月11日、鎌倉で北条時章・教時兄弟が謀反を理由に誅殺され、その4日後の15日、京都六波羅南方にいた時輔も同じく謀反を図ったとして時宗による追討を受け、義宗により襲撃を受けて誅殺された。(二月騒動)
その一方で「吉野に逃れ、行方不明になった」という記録も存在している。
創作物における北条時輔
北条時宗を題材にした創作物では、上述の時輔生存説を採用したものも存在している。
大河ドラマ『北条時宗』
(演:ドラマ版:太田光輝→東海孝之助→崎本大海→渡部篤郎、舞台版:川野太郎)
2001年放送のNHK大河ドラマではもう一人の主人公ともいえるポジションであり、時宗と対をなす存在として描かれている。『人は美しきもの』と考える時宗に対し、彼は『人は醜きもの』と考える。幼少時代は仲のいい兄弟だったが、成長するにつれて周囲の陰謀や思想の違いからすれ違いが生じるようになる(番組ディレクター曰く、2人は『ロミオとジュリエット』らしい。)。ちなみに宗政とは仲が悪く、弘安の役で宗政が亡くなるまで対立し続けていた。
六波羅へ出向して以降は関白・近衛基平と交流し、関係を深めていく。朝廷内で返書すべきとの意見が沸きあがる中、返書に反対する基平に『時の帝・亀山天皇の前で切腹をする』(これは関白は伝統的に参加できない『朝議』を開かれたためである。また、基平はこの時点で病の影響によりたびたび吐血しており、余命いくばくもないことがわかる。)という史実ではありえないことを提案する。そして切腹を実行した基平の介錯を務めた。
また、この頃から執権として現実と向き合わなければならなくなった時宗とは反対に理想を追い求めるようになる。
二月騒動のあとも左手が利かなくなる(鎧もつけずに幕府軍と戦い、幕府軍の大将である義宗の放った矢により左手を射貫かれたため)ほどの重傷を負いながらも生き延び、所謂『赤マフラー』(公式としては『スカーフ』)とファンの間で呼ばれる姿(メインイラスト参照)をした流浪の民となって大陸と日本を股にかけ、蒙古と日本を和平に導こうと行動をするようになる。ただ、その行動の中には敵に塩を送るような行動も多い。
赤マフラー化する前から蒙古、中国語に堪能であり、第41話で蒙古の使者とともに時宗の前に現れた際は彼らの通訳をした。
最終話では危篤から奇跡的に意識が戻った時宗と第41話以来の再会を果たし、その最期を己の腕の中で看取った。
時宗の死後、『時宗を大陸へと連れて行く』という約束を果たすために家臣である服部正左衛門とともに大陸へ渡っていった。
余談
上述の赤マフラー衣装は渡部氏のアイデアだと言われている(リンク先第3問参照)。
高橋克彦『時宗』
大河ドラマの脚本と同時進行で執筆された『時宗』においては弟・時宗とは最後まで仲の良い兄弟として描かれ、自らは日本のために時宗を支えようと行動を起こす。二月騒動も時輔が大陸への密偵として動くために起こしたという描写がされている。ドラマとは違い時宗が亡くなってからその知らせを受け、彼の最期を看取ることが出来なかった(そもそも時宗の最期の描写自体がドラマよりかなり薄い)。