概要
1950年代から80年代までプロレスラーとして活躍、コーチとして若手レスラーの育成に力を注いだ第一人者。
得意技であるジャーマンスープレックス(原爆固め)は、その華麗なフォームから『プロレス芸術品』と称され、ヨーロッパ仕込みのレスリングで得た高度なテクニックから『プロレスの神様』と呼ばれている。
そのファイトスタイルに強く魅かれたアントニオ猪木はゴッチを師と仰ぎ、藤波辰爾、前田日明、藤原喜明、木戸修、佐山聡(初代タイガーマスク)と、多くの日本人レスラーが彼の指導を受けた。
一方で、実力こそトップクラスであったものの、特に見た目の派手さを重視するアメリカのプロレス界では「あまりにも地味」「すぐに試合が終わる」として一部のレスラー、プロモーターには煙たがられていた。
逸話
1960年代『カール・クラウザー』のリングネームでドイツ人ヒールレスラーとして米国デビュー。
このような経緯からドイツ出身とされていたが、実際はベルギー出身と言われている。
1950年代、イギリスにあった『ビリー・ライレージム』(通称スネーク・ピット=蛇の穴)というレスリング道場で数年間トレーニングを積む。
梶原一騎原作の漫画プロレススーパースター列伝では画鋲をまいた床の上でブリッジしながらのバーべル上げ、コンクリート製のマットに叩きつけられる投げ技の受け身、手もしくは足を縛られてのグラウンドレスリングなど、過酷過ぎるトレーニングを積み重ねた挙句の果てにくミイラのように痩せこけた場面が描写されていた(勿論作り話である)。
因みに蛇の穴ことビリー・ライレージムは同じく梶原作品のタイガーマスクに登場した虎の穴のモデルになっている。
1968年、日本プロレスのコーチを引き受け若手・中堅レスラーを厳しく鍛える「ゴッチ教室」を開く。
ゴッチにしごかれたレスラーの一人、山本小鉄は後に鬼軍曹の異名を持つようになり新日本プロレスの若手レスラーを育成している。
一時期、国際プロレスに参加し、アンドレ・ザ・ジャイアントにジャーマンスープレックスを決めている。