ピクシブ百科事典は2023年6月13日付でプライバシーポリシーを改定しました。改訂履歴

の編集履歴

2016-11-08 10:30:40 バージョン

いん

殷とは中国の王朝の一つである

殷(または商)紀元前16?~11世紀は現在確認されている中国最古の王朝である。


歴史

『詩経』や『史記』等によれば、殷は(か)という国家の家臣であった湯王天乙)が反乱を起こして夏を滅ぼし建国した国家である。夏の存在は未だ考古学的には確認されていないが、二里頭文化の諸地方王権に関する伝説を後世まとめたものが夏王朝と考えられている(富谷至・森田憲治編『中国史 上』)。


殷についても、近年までその存在は伝承でしか伝えられていなかったが、殷の首都である殷墟(または大邑商)が発掘されその存在を確認された。富谷・森田らによると、初代王である湯王は、「亳」という地を都にしたとされ、河南省鄭州市の二里岡遺跡等の二里岡文化がこれに相当するとされる。この時期には、現在の山西省夏県や湖北省武漢市にも二里岡文化の城郭が発掘され、殷の勢力が及んでいたという。鄭州市の諸遺跡が廃絶する頃、湖北省の遺跡も廃絶し、殷の領域は縮小したらしい(富谷・森田編『中国史 上』)。


また富谷・森田らによれば、盤庚という王の時代に殷の街に遷都したとされるが、河南省安陽市にある殷墟の遺跡がこれに相当すると考えられている。この時代には高度な文明を持ち、漢字の原点である甲骨文字や複雑な文様の青銅器や大型の青銅器が発掘されている。なお甲骨文に書かれた国号の自称は「」であり、殷は後期の都の名前と呼ぶ方が正確である。甲骨文の多くは占卜の文言であり、殷の王は占いによってまつりごとを判断できる神秘的な最高祭司と見なされていた。その支配地は河南省北部、河北省南部であり、その周囲には殷に貢納する諸侯の支配地が広がっており、殷の後期には独自文化が見られるようになる。陝西省西部には後の王朝となる「先周文化」があり、『竹書紀年』は殷王武乙の時に後の文王の父に当たる季歴という人物が殷に仕えたという(富谷・森田編『中国史 上』)。


殷は約500年30代にわたって支配を続ける。しかし30代殷王の紂王の治世の時代に暴政を敷き民を虐げ、忠臣を廃すなど圧政を行ったという。これにより臣民共に不満を抱き属国である周の武王が反乱を起こし、殷は牧野の戦いで敗れて滅亡したとされている。この周の反乱は『書経』『史記』等により後世に伝わる。また、代の小説『封神演義』の題材ともなっている。


文献

富谷至・森田憲治編『中国史 上 古代―中世』昭和堂


関連

中国王朝

天乙湯王):殷の初代王

紂王:殷の最後の王

封神演義

問題を報告

0/3000

編集可能な部分に問題がある場合について 記事本文などに問題がある場合、ご自身での調整をお願いいたします。
問題のある行動が繰り返される場合、対象ユーザーのプロフィールページ内の「問題を報告」からご連絡ください。

報告を送信しました