レイテ沖海戦
れいておきかいせん
概要
レイテ沖海戦とは、連合国軍(ほぼアメリカ軍といって差し支えない)と日本軍により、1944年10月下旬に行われた一連の海戦の総称。 フィリピン中部にあるレイテ島周辺海域が主戦場となり、参加艦艇の総数および戦闘規模の大きさから、世界史上最大の海戦ともいわれている。
主要戦闘は24日から25日にかけて行われ、アメリカ海軍が大勝して、日本海軍は事実上壊滅した。
ここでは日米双方の海戦に至るまでの経緯を紹介した上で、主に日本側を中心に戦闘の流れをたどっていく。
アメリカ軍のフィリピン進攻
太平洋戦争緒戦にて、戦争準備が満足に整っていなかったアメリカは、日本軍の侵攻によってフィリピンを失陥することになったが、1942年後半、アメリカは戦時生産体制を整えて対日攻勢作戦を本格化し、ソロモン諸島の戦いを機に、太平洋の各地で勝利を重ね、次々と日本軍を駆逐していった。
1944年、アメリカはマリアナ諸島攻略を完了すると、次なる目標として台湾や沖縄、フィリピンへの進攻を検討したが、日本艦隊の脅威が残存していることなどから台湾進攻案は急進的すぎるとして却下されたため、沖縄と比べて陸地面積が広く、拠点の建設が容易であり、また親米ゲリラの助力を期待できるといった見地からフィリピンが次なる目標に選定され、9月以降、攻略計画が実行に移されることとなった。
このフィリピン攻略計画の採用に関しては、その指揮を務めたダグラス・マッカーサーがフィリピンに多くの利権を持っており、その奪還に強くこだわっていたという背景もある。
1944年9月、アメリカ軍はフィリピン攻略の足掛かりとしてパラオ諸島およびモルッカ諸島に対する攻略作戦を展開し、モロタイ島に飛行場を含む前線基地を建設。
10月には航空母艦(軽空母・護衛空母含む)35隻、戦艦12隻を擁するフィリピン攻略任務部隊と、米陸軍第6軍団からなる総兵力20万人の上陸部隊を乗せた船団が出撃し、作戦開始に備えることとなった。
なお海戦当日、米艦隊は日本艦隊迎撃を主任務とする第3艦隊(司令官:ウィリアム・ハルゼー大将)と上陸部隊支援を行う第7艦隊(司令官:トーマス・キンケイド中将)とに分かれて展開しており、シブヤン海海戦やエンガノ岬沖海戦では第3艦隊、スリガオ海峡海戦やサマール沖海戦では第7艦隊所属の艦艇が日本艦隊との戦闘を行った。
所属した戦闘艦艇は魚雷艇を含めて約160隻、補助艦艇を含めた総隻数は約730隻である。
日本の思惑
かくして、アメリカ軍によるフィリピン攻略が開始されたが、すでに潜水艦の海上交通路破壊によって兵站が崩壊しかけている日本が、さらにフィリピンを失うこととなれば、南方との補給線断絶が決定的となって、戦争続行が不可能となることは必至であり、まさに米軍のフィリピン侵攻は日本にとって死活問題であった。
また無条件降伏を回避し、条件付き講和を取り付ける協議に持ち込むには、今一度アメリカ軍に打撃を与えることで、アメリカと対等な立場にたつことが必要不可欠という考えから、日本軍は総力を結集しての反攻作戦を展開することとなった。
とはいうものの、敵艦隊迎撃の役を担う日本海軍の主力である第一機動艦隊(司令長官小沢治三郎中将)のうち小沢提督直卒の航空母艦を主力とする第三艦隊は、マリアナ沖海戦にて母艦航空隊の戦闘能力を喪失し、また本海戦直前に生起した台湾沖航空戦にて陸上基地航空兵力をも大きく消耗することとなり、成果が見込める活用可能な戦力は第二艦隊(司令長官栗田健男中将)の戦艦をはじめとする水上艦艇しか残されていなかった。
この為海軍はマリアナ沖海戦以後、錬成がより安易な基地航空隊を航空戦力の中核と考え、その戦力強化に力を入れる。ただ、空母機動部隊の再建も並行して行われたが、その完成は12月とされ、米軍の予想される反攻次期までにすべてが間に合う事は難しいとされた。
海軍はフィリピンを確保するために「来襲する敵機動部隊の殲滅」を当初目標にしたが、陸軍の反対もあり
・基地航空隊が敵機動部隊を捕捉殲滅する
・基地航空隊の一部と陸軍航空隊が敵上陸部隊を攻撃する
・空母機動部隊は敵機動部隊を北方へ誘致し、基地航空部隊と共にこれを殲滅する
・水上部隊は上記航空部隊の攻撃援護の元上陸地点に向かい敵を殲滅する
という作戦を立案。「機動部隊」と「攻略部隊」の2目標を攻撃する作戦を立案する
1944年9月末までの時点で、陸海軍総力を挙げた航空戦力強化の効果もあり、基地航空隊は当初予定の大半を、空母機動部隊も250機前後の戦力を持つまでになっていた。
ところが10月に入り米機動部隊が台湾や南西諸島などに進出。これを基地航空隊が迎撃し「台湾沖航空戦」が勃発。これに空母機動部隊の錬成したばかりの航空戦力と、直衛部隊の「第五艦隊」を連合艦隊からの「当分機動部隊は運用しないから」の口約束を信じて提供する。ところが結果は敵機動部隊に全く損害を与えられぬまま航空部隊は壊滅してしまう。そして間の悪いことにこの航空戦が終わった直後に米軍のレイテ湾への侵攻が開始されてしまう。
この事態に連合艦隊は約束を反故にして第三艦隊の出動を命令する。第三艦隊の参謀達からは艦隊の当然の如く反対の声があがったが、最終的には出撃を了承する形となり、4隻の空母になんとか正規空母1隻分の艦載機を搭載した日本最後の機動部隊は、最後となるであろう戦闘に出撃した。
また「主役」ともいえる第二艦隊はこの時点でリンガ泊地にいた。マリアナ沖海戦後に内地に帰還した同艦隊は、補給の厳しくなった内地より、燃料の豊富なリンガ泊地で次期作戦に備えた方が良いと判断され、ありったけの対空火器を各艦艇に搭載して1か月も経たずして出撃、リンガ泊地でもう訓練をしていた。そのため作戦が公表された時に内地におらず、マニラにて双方の参謀が集結して作戦会議が行われたが、その際に小柳第二艦隊参謀長より
「もし進撃途上で敵主力艦隊と接触し、二者択一を迫られた場合は、主力艦隊攻撃を優先してよいか」
という要請に対して神連合艦隊参謀は了承を与え、それが後に尾を引くことになる。
台湾沖航空戦で出動していた第五艦隊は帰投途上で米軍侵攻が知らされ、機動部隊と合流できぬまま台湾に向かった。そのため連合艦隊は急きょ同艦隊を機動部隊から南西方面艦隊へ配置換えをし、別任務を与える事にする。この為機動部隊の直衛艦艇が少なくなり、急きょ対潜部隊である「第31戦隊」を第三艦隊に配置する。
なお作戦公開のあと、小沢は作戦では水上艦隊を小沢提督が指揮することになっていたが、広大な洋上で第二艦隊を指揮するのは困難と考え、従来の第一機動艦隊(第三艦隊司令部が兼任)が第二、三、五艦隊を指揮するのを改め、3艦隊を連合艦隊直属とし、連合艦隊が指揮した方が良いと意見具申。また同時に第二艦隊の水上戦力強化と直属の航空戦隊の配備も併せて具申したが、連合艦隊は水上戦力の強化(第二戦隊と第十戦隊の第二艦隊への配置転換)は認めたがそれ以外は認めず、小沢との間で意見対立を見たが、指揮に関しては第三艦隊の航空戦力が台湾沖航空戦で欠乏した事でなし崩し的に小沢の要求通り第二艦隊は連合艦隊直轄となった。
参加艦隊は以下の通り。
第一遊撃部隊(第二艦隊基幹 通称「栗田艦隊」)
水上打撃部隊の主力で、指揮官は第二艦隊司令長官兼第四戦隊司令官の栗田健男中将。また同部隊は第一第二の2部隊に別れ、第二部隊は第三戦隊司令官鈴木義尾中将が指揮を執っている。
第一部隊
第二水雷戦隊:能代・駆逐艦9隻
第二部隊
第十戦隊:矢矧・駆逐艦6隻
第一遊撃部隊第三部隊(通称「西村艦隊」)
後述するが作戦発動後に栗田艦隊から急遽分派された別働隊で、指揮官は第二戦隊司令官西村祥治中将。
第二遊撃部隊(通称「志摩艦隊」)
元々は小沢治三郎中将の指揮下にあったが、前述のように台湾沖航空戦に駆り出され、そのまま南西方面艦隊司令部に配置換えとなる。
第一水雷戦隊:阿武隈・駆逐艦7隻
※第十六戦隊は元々第一遊撃部隊所属だが同隊のブルネイ到着と共に第二遊撃部隊へ配置換えとなる。しかし合流の為マニラに向かう途上で青葉が大破し戦線離脱し、第二遊撃部隊自身もマニラに来なかった事で合流できず、オルモック湾への部隊輸送の別任務を与えられ別行動となる。また第一水雷戦隊のうちの第二十一駆逐隊の3隻も別任務で本隊と別行動となり、合流中に空襲を受けて若葉が沈み、初霜も損傷したので合流を諦め退却。そのため実際に行動したのは重巡2、軽巡1駆逐4となる。
第一航空艦隊
指揮官は大西瀧治郎中将。
元々は捷一号作戦での航空戦力の中核だが、9月に発生したダバオ誤報事件で壊滅し、更に台湾沖航空戦でも戦力を損耗し、直後のレイテ侵攻では40機ほどの航空戦力しかなかった。
第二航空艦隊
指揮官は福留繁中将。
元々は捷二号作戦での航空戦力の中核で、北九州や南西諸島に展開していたが、ダバオ誤報事件で壊滅した第一航空艦隊の代行として台湾に進出。しかし台湾沖航空戦で戦力を半減し、続くレイテ沖海戦では従来の半数である300機ほどの戦力で米機動部隊と相対することになる。
神風特攻隊
本海戦は神風特別攻撃隊が初めて実戦投入された戦いとしても知られている。
当海戦では、フィリピン駐留の第一航空艦隊による栗田艦隊の上空援護が予定されていたが、台湾沖航空戦による損害と上陸前の事前空襲によってこれが不可能となってしまったため、司令部は艦隊への空襲を防ぐための代案を検討しなければならなくなった。
この時、敵空母の飛行甲板を使用不能とすることで攻撃機の発着艦を阻止することが考えられたが、直掩の戦闘機部隊確保にも事欠く有様でありながら、敵の防空網を突破し空母に打撃を与えることができる攻撃隊など到底編成できるわけがない。
そこで「大規模な航空隊を投入出来ないのであれば、むしろ少数のみの使用に限った方が敵防空網突破の可能性をあげられる」「どちらにせよ生還が期待できないならば、戦果が不確実な雷爆撃を仕掛けるより、敵に体当たりして戦果を確実にした方がいい」といった理由に基づき、戦闘機に爆弾を搭載して敵空母の飛行甲板へと体当たり攻撃を行う部隊を編制し、これを実戦に投入することにした。
こうして編成された神風特別攻撃隊は、サマール沖海戦直後の攻撃で敵護衛空母1隻を撃沈する戦果をあげたものの、逆にこの戦果が特攻の威力を海軍に過信させる結果となり、当初はこのフィリピンのみでの戦法と考えていたこの特攻戦法が、終戦まで用いられることとなった。
戦いの流れ
捷一号作戦発動
1944年10月6日、米機動部隊はフィリピン攻略任務部隊として停泊地のウルシー環礁を出撃し、制海権と制空権の確保のため、各地の日本軍拠点に対する空襲を行った。その後、12日から始まった台湾沖航空戦にて日本陸海軍航空部隊の攻撃を退けると、17日にはレイテ湾に到着して上陸作戦を開始した。
10月18日、アメリカ軍がレイテ湾口のスルアン島に上陸を開始したとの報告を受けた日本軍は捷一号作戦を発動し、連合艦隊司令長官豊田副武大将より各艦隊に指令が通達されて、レイテ沖海戦の幕が開けた。
出撃準備(10月23日まで)
10月18日、栗田艦隊は泊地を出港して前線拠点であるブルネイに20日に到着する。ところが作戦上ではブルネイに津着している筈の連合艦隊が手配した補給船団が到着しておらず、栗田が独断で手配していた補給船2隻も翌日に到着する事態となっていた。この時点で24日黎明に上陸地点に突入する異になっていた栗田艦隊だが、この状況では24日突入はどう頑張っても無理であることから、決行日を25日に変更するよう連合艦隊に打電。艦隊は補給船2隻が到着次第速やかに補給できるよう小型艦艇は大和などの大型艦艇から補給し、補給船は大型艦艇にのみ補給すればよいように手配した。尚連合艦隊の手配した補給船団は結局間に合わなかった。
ここでどのように進撃するかが問題となった。レイテ湾へのルートは4つ
・新南群島を北へ迂回する第一ルート
・パラワン水道を通過してシブヤン海に入る第二ルート
・スル海を北上してシブヤン海に入る第三ルート
・スル海を東進してスリガオ海峡から侵攻する第四ルート
このうち第一ルートは一番遠回りで25日の到着は不可能であり、残りの3ルートのうち第四ルートが最短だが一番早く敵制空圏内に入るので早期発見される危険が高く、第三ルートも早期発見の可能性では第二ルートより高かった。第二ルートは反面狭いパラワン水道を長期間通過するので敵潜水艦の待ち伏せの脅威があった。
この為栗田艦隊は新たに第三部隊を編成して低速の第二戦隊を配置。低速小規模のこの部隊を第四ルートから、主力を第二ルートから進撃させ、挟撃作戦をとることにし、指揮を第二戦隊司令官の西村中将に執らせた。
一方第二遊撃部隊はその用途について所属する南西方面艦隊と連合艦隊との間で意見の違いがあり、中々決定をみないまま、台湾の馬公で準備していた。ようやくレイテ湾に突入することが決したのは21日午後であり、マニラに向けて出港するが途中で第一遊撃部隊の行動予定の詳細を受け、マニラに行けば間に合わなくなると判断し、コロンに向かう事にする。23日18時にコロン湾に入るが当てにしていた補給を受けれず、艦隊はそのままレイテ湾に向けて出撃する。
米潜水艦の雷撃(10月23日)
補給を何とか済ませた第一遊撃部隊は主力が22日早朝、第三部隊は同日午後にブルネイを出撃した。翌23日未明、第一遊撃部隊がパラワン水道を航行していたところを2隻の米潜水艦が発見。2隻はこのことを味方艦隊に通報すると、日本艦隊に向けて魚雷攻撃を実施した。
この潜水艦を察知できていなかった栗田艦隊は不意打ちを受ける形となり、旗艦の愛宕とその姉妹艦、摩耶が沈没。高雄も大破してブルネイに後退した。
日本艦隊は敵艦隊と戦う前から強力な重巡洋艦3隻を一度に失うという被害を受け、出鼻をくじかれる羽目になったが、栗田中将は大和に移乗して作戦を続行した。
シブヤン海海戦(10月24日)
10月24日の午前中、小沢中将率いる機動部隊による囮作戦は未だに効果を上げていなかった。一方の第二航空艦隊は早朝の偵察で敵機動部隊の一群を発見。攻撃隊を出すが迎撃機に阻まれ攻撃に失敗する。それでも迎撃を潜り抜けた彗星1機が空母プリンストンを攻撃し同空母は大破。後に沈没している。
一方のアメリカ艦隊は潜水艦や偵察機の情報から日本艦隊の動きを察知しており、ハルゼー率いる機動部隊が栗田艦隊への攻撃を開始した。
航空支援の無い栗田艦隊は米艦載機部隊の容赦のない攻撃に晒され、特に武蔵には雷爆撃が殺到して沈没寸前にまで追い込まれた。
その他、妙高が被雷し戦場を離脱。大和や長門、利根なども爆弾が命中する被害が生じ、浜風には火災が発生するなど各艦の損害が深刻化し始めていた。
艦隊の被害状況を見た栗田提督は、一時反転して空襲を避けることを決意し、艦隊を反転させて海域を離脱した。
ところがその頃になってようやく小沢艦隊を察知した米機動部隊が攻撃を中止して北上したため、栗田は再度反転してレイテへと進撃を再開する。しかしこのタイムロスにより西村・志摩の両艦隊と翌日未明にレイテ湾へ同時突入することは不可能となった。
また空襲で大破した武蔵は利根、清霜、浜風、島風が護衛についてコロン湾への回航を行っていたが、損傷復旧の甲斐なく武蔵は19時35分に沈没した。
スリガオ海峡海戦(10月24日~25日)
山城・扶桑を主力とする西村艦隊は、北方からレイテ湾に突入する栗田艦隊と呼応して南のスリガオ海峡から突入する使命を受けて進撃していた。途中アメリカ艦載機の攻撃を受けるが、敵の目が栗田艦隊に向いていたため、たいした被害もなく航行を続けていた。
しかし、スリガオ海峡にはオルデンドルフ中将率いる水上部隊・約40隻が展開されており、
16インチ砲搭載艦を含む旧式戦艦および重・軽の巡洋艦からなる砲撃部隊に加え、駆逐艦からなる水雷戦隊、哨戒任務の魚雷艇部隊が鉄壁の迎撃態勢を敷いて待ちかまえていた。
作戦予定では栗田艦隊は24日日没時にはサンベルナルジノ海峡を通過していないといけなかったが5度にわたる空襲により大きく遅れていた。西村提督は14時に現在位置を知らせているが当時栗田艦隊は空襲の真っ最中であり、栗田は第五次空襲後に反転した報告を16時に発信。しかし西村艦隊に対する明確な指示はなく、スリガオ海峡に迫った同艦隊は20時に艦隊単独での突入を決意する。栗田からは25日9時に合流するよう連絡が来たのは彼らが突入を開始して米魚雷艇と交戦状態に入った23時前であった。
24日深夜、米魚雷艇部隊が西村艦隊と接触すると、次いで駆逐艦部隊が西村艦隊と交戦を開始し、魚雷攻撃を行った。最初の第一波で扶桑が大破航行不能となり、やがて大爆発を起こし船体が真っ二つになり沈没。その後第二波の雷撃を受けた山雲が轟沈し、満潮は大破し間もなく沈没。朝雲も大破し後退するが追撃してきた米巡洋艦に攻撃を受け沈没した。
西村艦隊は損害を省みず突入を続けたが、海峡出口には戦艦を主力とする砲撃部隊が待ち受けており、西村艦隊をレーダーに捉えると暗闇の中から艦砲射撃を開始した。
レーダーが使い物にならなかった西村艦隊は、敵艦の発砲炎をたよりに応戦するも、最上が多数の命中弾を受けて大破し、戦艦山城は弾薬庫引火により沈没した。
山城の沈没に際して西村中将は戦死し、西村艦隊は最上と時雨を残して壊滅。時雨と最上は反転・離脱した。
西村艦隊の後続していた志摩艦隊も続いて突入したが、まず阿武隈が魚雷艇の攻撃で大破し戦線離脱。また旗艦の那智が進撃中、後退してきた最上と衝突してしまう。
志摩艦隊は旗艦が損傷し、西村艦隊も壊滅した事を受けて撤退を決意し、阿武隈と最上にコロン湾へ回航を命じたが、26日の空襲にて阿武隈は沈没し、最上は曙の魚雷で処分された。
栗田艦隊は25日早朝、西村艦隊の壊滅を知った。
エンガノ岬沖海戦(10月25日)
南下を続けていた小沢艦隊は、24日午前中に敵機動部隊を発見し、全航空隊を出撃させる。しかし瑞鶴以外の航空隊は敵を発見できずにフィリピンの友軍基地に退却し、瑞鶴の攻撃隊も殆ど戦果を挙げれなかった。午後になってようやくハルゼー率いる機動部隊が北上を開始するが、それまでの間に栗田艦隊は手痛いダメージを受けてしまっていた。
翌25日より米軍の空襲が始まった。小沢艦隊の直掩戦闘機隊は優勢な米攻撃隊を相手に奮戦したが、全機が撃墜あるいは不時着して失われた。以降小沢艦隊は猛烈な波状攻撃にさらされ続けた。
この攻撃により第一次空襲で千歳と秋月が沈没し、Sの後の空襲で瑞鶴と多摩が被雷。千代田が大破し航行不能となった。
小沢中将は第一次空襲で被雷し通信能力が低下した瑞鶴から大淀に変更して戦闘を継続したが、一方のハルゼーは、サマール島沖にて栗田艦隊が護衛空母部隊との交戦を開始したことを受けて、直ちにレイテ湾に戻るよう命じられたため、艦隊のおよそ半数を率いてレイテに引き返した。
以後、小沢艦隊への攻撃はミッチャー提督のもと継続され、
午後には瑞鶴、瑞鳳が沈没。日本海軍機動部隊は事実上消滅した。
なお空襲は続行されたが、艦隊に残存していた伊勢と日向は対空砲火と的確な操艦術でこの攻撃をことごとく回避することに成功。日没後には他の残存艦も海域を離脱して日本本土へと撤退したが、追撃の米巡洋艦部隊と接触した千代田、初月が沈没。また単独で退避中の多摩が米潜水艦の雷撃を受けて沈没した。
小沢艦隊は確かにハルゼー機動部隊を北方に誘致することは成功した。しかしその囮を行った理由である「栗田艦隊を機動部隊の脅威から取り除く」事には失敗した。そもそも小沢艦隊司令部には囮の役割を何時から何時まで行って栗田艦隊を空襲の脅威を取り除くかの認識が乏しく、其のことは貴下の艦である大淀の戦闘詳報でも厳しく指弾されている。また一説では栗田艦隊が24日夕刻に一時反転した事を小沢艦隊は退却したと受け止め、続く再進撃の報告が届かなかったため栗田艦隊がレイテ湾に向かっている事を把握していなかったともいわれている。(第四航空戦隊司令の証言による)
その為小沢艦隊側は敵中に孤立すると考え後退し、状況をより細かく執拗に報告しなかったので敵艦隊誘致成功の報はその機会を失うまで、栗田のもとには届かなかったとも言われている。
サマール沖海戦(10月25日)
シブヤン海海戦ののち進撃を再開した栗田艦隊は25日未明にサンベルナルジノ海峡を通過した。
この時点での栗田艦隊の勢力は戦艦4隻、重巡洋艦6隻、軽巡洋艦2隻、駆逐艦11隻まで減少していたが、艦隊はレイテ突入を続行した。
25日朝、大和の対空電探が敵機を探知し、大和の見張り員が35km先のマストを確認した。
それは上陸支援任務を行っていた米護衛空母部隊であったが、栗田艦隊はこれを正規空母6隻の主力機動部隊と誤認し攻撃を開始。
大和、長門以下第一戦隊が主砲による砲撃を行い、麾下の重巡部隊が突撃を行った。
栗田艦隊の攻撃を受けた護衛空母部隊は、小沢艦隊を追撃中の第3艦隊ハルゼー機動部隊に救援を要請すると、逃走を図りつつ保有の艦載機と護衛の駆逐艦による反撃を行った。
このときの米護衛空母ガンビアベイの勇戦は現在でも語り継がれ、アメリカ海軍の士官候補生が必ず学ぶ教材となっている。
駆逐艦ヒーアマンからの魚雷に挟まれ、長門と大和が反対方向へ16kmの航行を強要された他、護衛駆逐艦サミュエル・B・ロバーツの抵抗により金剛は護衛空母部隊への突撃から脱落した。
護衛空母部隊に突撃した重巡部隊と水雷戦隊には敵艦載機による熾烈な反撃が行われ、重巡洋艦を狙った攻撃が日本艦隊に殺到した。
この攻撃で羽黒が急降下爆撃を受けて損傷。矢矧は敵機からの機銃掃射を受けて、第十戦隊司令部に死傷者を出す被害が生じ、駆逐艦の雷撃で損傷した熊野はコロン湾を目指して戦場を離脱した。
また鈴谷が搭載魚雷の誘爆により沈没し、鳥海は被弾の後に雷撃処分。筑摩も敵艦載機の攻撃で航行不能となり沈没した。
その後、各艦からの戦果報告で十分な戦果を上げたと判断した栗田は、艦隊に集結命令を出して攻撃を一時中断した。
反転・栗田艦隊退却
艦隊は一時集結した後、まもなく進撃を再開した。
ほどなく新たな敵機動部隊の存在を知らせる電文(通称「ヤキ1カ電」)が届いた。栗田艦隊は協議に入るとともに南西方面艦隊や基地航空隊に対してこの部隊への攻撃を要請する。この電文に関しては大和以下第一遊撃部隊艦艇に着電記録はなく、発信者も不明な点から捏造説も根強く言われているが、以下の点から現在では存在はしていたと考えられている。
①
捏造というのなら上記のように攻撃要請を他部隊に出すのは自身の捏造を敢えてばらす行為であり不自然
②
この電文は栗田艦隊司令部の記録ですら着電記録はなく、上記の攻撃要請の記録が唯一である。捏造だというのなら何故着電記録を捏造せず、簡単に疑われるような事をしているのか不自然
③
栗田艦隊とは全く離れた他部隊にも、同時期に似た内容の電文が記録されており、各部隊はそれに則って行動をしている。
・第二航空艦隊はヤキ1カ電の5分後に発信されたとされる「0940地点『ウキ5ソ』に敵空母3隻見ゆ」の情報を元に退避していた第三航空戦隊の残余機に攻撃を依頼している。なおこの依頼は栗田艦隊の攻撃要請の前に出されており、栗田艦隊が情報源であることはあり得ない。またウキ5ソはヤキ1カの近距離である。
・第六艦隊は「0900ヤンメ55に敵空母あり」の情報を貴下の潜水艦に発信しているが、ヤンメ55はヤキ1カとウキ5ソの中間地点である
・軍令部の記録員だった野村実氏によると、この頃軍令部の作戦図にヤキ1カ付近に敵機動部隊の書き込みがあったと証言。この書き込みは作戦部長の中沢祐も手帳に記録している。
ほぼ同時期にヤキ1カ付近の海域で米空母発見の報告が、形を変えて各部隊で受電されている事から、電報自体は存在していないと、このようなことは起こりえない。
なお不思議な事に第二航空艦隊と第六艦隊の情報はこちらも情報源である発信者の記録がない。
栗田艦隊はこの情報を元に反転するか突入を継続するか議論が行われる。しかし
・突入しても既に上陸から5日が経過しており、既に上陸部隊は射程外に、物資も揚陸し終えて輸送船に無く、揚陸地点も判別できないのでどれだけ戦果を挙げれるか不明
・25日もサマール沖海戦後より数度の空襲を受けており、実際この時点でも空襲を受けている最中だった。小沢艦隊からの情報もない事から敵の誘致に失敗している可能性が高い
・基地航空隊の戦果も上記の理由から効果をあげていないと考えられる。これだと仮に突入して上陸部隊を壊滅(その結果栗田艦隊も壊滅する)させてもハルゼー機動部隊は健在であり、フィリピンの防衛は実質失敗する
・それよりもサマール沖海戦のように敵機動部隊を攻撃して少しでも戦果を挙げた方が戦局に貢献できる
と判断し、艦隊は北上を決断する。
反転した栗田艦隊はまもなく敵艦載機の攻撃を再び受けるようになり、被害がさらに拡大する結果となった。
これによって、レイテ突入の機会は永遠に失われることとなった。空母を全て失った小沢艦隊の奮闘も、作戦が狂った為に単独突入した西村艦隊の壊滅も、武蔵をはじめとする指揮下艦艇の喪失も、そして戦死した数千の将兵の犠牲も全てが無駄になったとして批難する意見もあるが、一方で作戦開始時点で突入時期が遅延しており効果を得られるか不明な状態であったこと、本来なら敵機動部隊を殲滅して栗田艦隊の突入を支援する基地航空隊が台湾沖航空戦で壊滅し、作戦の根幹が崩れているのにそれを継続させたこと、上記のように囮作戦は実際は栗田艦隊を敵航空機の脅威から守る事ができていないこと、西村艦隊の単独突入して壊滅したのはそれが要因であること、栗田艦隊自身は敵主力か輸送船団どちらかを選ぶときは敵主力攻撃を優先してよいと許可をえていること、海軍の作戦目的は「敵機動部隊壊滅」と「敵上陸部隊への攻撃」の2つであり、その一つを栗田艦隊は一部達成していること、などから反転を是とする意見も多い。
尚、海戦後の海軍での栗田の評価は、今と異なり非常に高かった。これは上記のように1個艦隊で敵機動部隊の一群(これは誤認なのだが戦後になるまで日本側は誰もその誤りに気付かなかった)を壊滅させるという誰も達成できなかったことをやってのけたからであり、反転した事に対しての批判は一部キャリア軍官僚以外は殆どなかったという。
終結・決死の逃避行
栗田艦隊の退却後、日本艦隊撃滅を目指すハルゼー提督は追撃部隊を率いて栗田艦隊に迫った。
日没後に栗田艦隊を追撃した水上部隊は司令部を含む本隊を取り逃がしたものの、筑摩の乗員を救助していた野分を捕捉し、これを撃沈した。
26日未明、米軍偵察機はミンドロ島の南方を航行中の栗田艦隊を発見し、米機動部隊は日の出と共に攻撃部隊を差し向けた。
この攻撃で退避中の熊野が損傷して、早霜が擱座。早霜の救援に向かった藤波が撃沈され、能代もまた沈没した他、大和も2発の直撃弾を受けて、大浸水が発生した。
その後、艦隊はなんとか追撃を振り切り、28日夜にブルネイへと帰還した。各艦の燃料は底をつきかけており、ギリギリの帰還だった。
海戦後
レイテ沖海戦の敗北の結果、アメリカ軍に大打撃を与えて講和に持ち込むという日本の思惑は完全に挫折した。1945年1月、小磯首相は、レイテ決戦をルソンを含んだフィリピン全体の決戦に拡大すると発表し、事実上レイテ決戦の敗北を認めた。
その後、アメリカ軍はフィリピン各地に飛行場を設置し、潜水艦による海上交通路破壊に加えて、航空機による通商破壊をも本格化して日本の南方航路封鎖を強めたため、日本は戦艦まで輸送任務に使用し、北号作戦や南号作戦を行って資源確保に努めたが、1945年3月以降は南方航路の維持も最早不可能となった。
南方航路を失ったことで、日本軍艦艇は本格的な整備施設のない南方と燃料が枯渇した内地とに分断され、残存艦艇の多くは浮き砲台として港湾に係留されるか、輸送任務に従事するなどしたが、空襲と潜水艦の雷撃によって行動可能な艦艇は徐々に失われていった。
その後、1945年4月に大和の沖縄水上特攻が行われ、5月にはマラッカ海峡でペナン島沖海戦が生起したが、これが日本海軍の最後の水上戦闘となった。
本海戦における喪失艦艇(支援任務中に撃沈された艦も含む)
戦艦
武蔵 扶桑 山城
航空母艦
瑞鶴 瑞鳳 千歳 千代田
重巡洋艦
愛宕 摩耶 鳥海 筑摩 最上 鈴谷
軽巡洋艦
多摩 能代 阿武隈
アメリカ軍側喪失艦艇
- 軽空母・プリンストン
- 護衛空母・ガンビア・ベイ
- 護衛空母・セント・ロー
- 駆逐艦・ジョンストン
- 駆逐艦・ホーエル
- 護衛駆逐艦・サミュエル・B・ロバーツ
※セント・ローは神風特攻隊の攻撃により撃沈された。