概要
1960年8月6日生まれ。
野球選手として
1978年のドラフト2位で近鉄バファローズに入団。
1984年に加藤英司・大原徹也との2対2の交換トレードで福井保夫とともに広島東洋カープに移籍。
1987年シーズン途中に永田利則とともに西山秀二(+金銭)との交換トレードで南海ホークス(のち福岡ダイエーホークス、現・福岡ソフトバンクホークス)に移籍。
主に遊撃手として起用され、1989年には二塁手、三塁手を兼ねユーティリティプレイヤーとして準レギュラーで活躍。
1994年には松永浩美の入団で出場機会が減り、1996年限りで現役を引退。
引退後
1997年からはホークスの内野守備・走塁コーチを務めた。
(1997年~1999年は二軍コーチ、2000年~2002年、2005年~2006年は一軍内野守備・走塁コーチ[2006年はチーフコーチ兼任]、2003年~2004年は二軍監督兼内野守備・走塁コーチ)
2006年のシーズン開幕前に王貞治監督がWBC代表監督としてチームを離れていた間、監督代行としてオープン戦の指揮を執り7月6日からは王監督の胃癌手術に伴う休養で再度監督代行を務めた。
2007年~2008年は秋山幸二の総合コーチ就任に伴い内野守備走塁コーチに専念。
2009年に監督に昇格した秋山の下でヘッド兼内野守備・走塁コーチを務めたが11月に解任。
2010年からは野球解説者(J SPORTS、NHK福岡放送局、アール・エフ・ラジオ日本)を務めた
2011年は読売ジャイアンツの二軍内野守備・走塁コーチに就任するが1年で退団。
2012年からは岡田彰布監督の元でオリックス・バファローズのチーフ野手兼内野守備・走塁コーチを務めるが最下位確定で最終戦までの9試合を指揮、翌年監督昇格。
2013年はリーグ5位だったが2014年は前半戦を首位でターンしたものの終盤にソフトバンクに逆転されゲーム差なしの2位。しかしクライマックスゲームで3位の日本ハムに敗れる。
2015年、大型補強をしたが補強選手を含め主力のけがによる大量離脱から最下位、6月から休養、8月末に正式に退任。
2015年9月1日付で、仰木彬・中村勝広に次ぐ球団史上3人目のシニアアドバイザー(SA)に就任、2016年まで務める。(その後後任は長谷川滋利が職務を引き継ぐ)
2017年シーズンからは、中日の一軍内野守備走塁コーチとして現場に復帰、8月13日に森繁和監督が急逝した長女の通夜に出席するため途中から監督代行も務めた。
王貞治が「ノックだけで飯が食える」と評しているほどノックの技術は球界屈指とされる。また監督代行を務めた時は好成績を残している。