概要
天保4年(1833年)、会津藩士佐々木源八の三男として生まれ、親戚の旗本佐々木弥太夫の養子となる。
「小太刀日本一」と称され、講武所の剣術師範を務めたとされる。
文久3年(1863年)1月、清河八郎らの案を受け、将軍徳川家茂警護のための浪士組を募集。佐々木は取締並出役として上洛する。
京都到着後、清河は浪士組結成は尊皇攘夷実行のためであると主張し江戸帰還を宣言。この時京都残留を主張し分離した芹沢鴨・近藤勇らのグループは、佐々木の計らいもあって会津藩預りとなり、壬生浪士組(後の新撰組)となった。
江戸へ帰還した佐々木は、幕府にとって危険人物となった清河八郎を殺害した。
元治元年(1864年)4月、京都見廻組が設置されると、佐々木は京都見廻役蒔田広孝の下で与頭(隊長)となる。その後見廻役は何度か交替したため、見廻組の実質的な指揮は佐々木が執っていたと思われる。
見廻組は二条城や御所周辺を巡邏する他、禁門の変にも出動。慶応3年(1867年)11月15日、坂本龍馬・中岡慎太郎の暗殺(近江屋事件)にも佐々木らが関与したとされる。
慶応4年(1868年)1月、鳥羽伏見の戦いが勃発すると、佐々木も見廻組を率いて参戦。腰に銃弾を受け、敗走中に死亡した。享年35。