交戦勢力
交戦国 | 兵力 | 指揮官 |
---|---|---|
大日本帝国 | 35,000(増援含まず) | 山下奉文 |
イギリス・オーストラリア・イギリス領インド帝国 | 88,600(増援含まず) | アーサー・パーシバル |
概要
大東亜戦争における、大日本帝国陸軍による当時イギリスの植民地であったマレー半島及びシンガポールの攻略作戦であり、『馬来作戦』とも呼ばれ、日本側の作戦名は『E作戦』だった。この戦いが、後のマレーシア・シンガポールの独立に繋がっていく。
詳細
日米交渉にかけた日本のアメリカ合衆国との和平への最後の努力は、アメリカ政府が突きつけてきたハルノートによって潰え、これにより日本の対英米開戦はやむを得なくされた。
そうして1941年12月4日の早朝、17隻(20隻とも)の輸送船に乗り込んだ山下奉文将軍が率いる陸軍第25軍は、小沢治三郎海軍中将の南遣艦隊に護衛されながら海南島を出発、その内の14隻はタイ領南部のシンゴラとパタニを目指し、3隻がイギリス領マレーのコタバルに舵をとった。
そして同月8日の日本時間午前1時35分に、コタバルのサバク海岸沖合で上陸用舟艇に乗り込んだ侘美浩少将率いる侘美支隊約6000人の将兵が、上陸地点目座して突進を開始。同午前2時15分から戦闘が開始された。
その頃にタイのシンゴラに向かった船団も到着して上陸を開始。当時の東南アジアで唯一の独立国で、親日的なタイに対し日本は攻撃意図は全く無く通過を申し入れるのみであった。
その際に中立を守ろうとするタイ軍警との間で一部小競り合いが起こったが、プレーク・ピブーンソンクラーム首相と坪上貞二駐タイ大使との間で日泰攻守同盟条約(日泰同盟)が結ばれ軍警に日本に協力するよう指令が出たことで治まり、イギリス領マレーとの国境を目指して進軍した。
日本陸軍はイギリスがタイとの国境に築いた強力な防衛陣地ジットラ・ラインを突破するため、本来は湿地帯であり構築段階での工事は難航し、工事を請け負っていたタイ政府も半ば匙を投げかけていたことに目をつけ、山下将軍と同じく「マレーの虎」の異名で名をはせていた義賊ハリマオこと谷豊と、彼を引き入れた日本陸軍諜報員の神本利男をジットラ・ラインに潜入させた。
谷が仲間とともに陣地やその周辺の測量を行い地図を作成し、神本がそのデータをタイ王国の公使館附武官である田村浩大佐を通じて本国へと送り、更に築城工事を遅らせるためにセメントを盗んで沼地に沈めたり、建設機械を故障させるなど妨害工作を行った。
その後、河村参郎旅団長は敵情捜索を兼ねた先鋒部隊として、佐伯静雄中佐率いる佐伯挺進隊581名が国境付近を捜索、その後になんとこの僅かな手勢で国境を越え、敵中突破を試みた。
まず国境から十数km入ったところにある関門であるチャンルンを、イギリス軍との戦闘や妨害工作に遭いながらも奮戦して突破、そのままケダー州に入り州都アロールスターに迫り次の陣地を突破しようとするが、斥候のミスで敵情判断を誤って敵の堅陣と地雷原に阻まれ、佐伯挺進隊はあわや全滅の危機に陥った。
しかし危ういところで急追してきた味方の岡部連隊が追いついて敵の背後に回り込み、戦況は互角となる。その後日が傾き夜襲の準備にかかろうとした際に敵が退却を始めたことからそのまま間髪を入れずに攻撃し、遂に難攻不落のジットラ・ラインを突破する。
当初は一個師団(兵力約2万)全力をもって攻撃しても3か月はかかると言われたジットラ・ラインを、なんと僅か15時間で攻略した。