概要
ダグラス社が開発し、アメリカ海軍に採用された艦上爆撃機。愛称は「ドーントレス(恐れ知らず、勇敢な、我慢強い)」。
SBDは「Scout Bomber D(ダグラス社の社番)」の意。
主翼後部のダイブブレーキを兼ねた穴開きフラップを上下に開き、急降下する姿が特徴的で、映像作品でもたびたび描かれている。
ノースロップ社のXBT-2(1935年初飛行)を引き継ぐ形で開発され、試作機は1938年に初飛行した。
1939年に量産が開始され、1940年に部隊配備が始まったが、ヨーロッパ戦線でのドイツ軍急降下爆撃機・Ju87の活躍に刺激され、大幅な改良を加えたSBD-3が生産された。
SBD-3は当時の日本海軍艦上爆撃機・九九式艦上爆撃機より速度、航続距離、操縦性、搭載量に於いて大きく勝り、太平洋戦争緒戦のアメリカ海軍にとって最も苦しい時期を支え、ミッドウェー海戦では勝利の立役者となった。
空荷の状態では運動性に優れ、少なからぬ日本海軍機を撃墜しているが、対抗馬である九九式艦上爆撃機や艦上爆撃機彗星、Ju87も少数ながら前方機銃による撃墜戦果を挙げている。
後継機のSB2Cは就役した後も不具合により改修が続いたため、その間SBDの改良も進められ、終戦間際まで現役にあった。
急降下爆撃機ゆえの鈍足を除けば現場での評価は非常に高く、SBDをもじって「Slow But Deadly(鈍重だが致命的)」と呼ばれた。
SB2Cが「Son of a Bitch 2nd. Class(二流のクソッタレ)」と呼ばれたのとは対照的である。
アメリカ陸軍航空隊(1942年よりアメリカ陸軍航空軍)向けに空母用装備を取り外したA-24「バンシー」攻撃機(SBD-3A)も多数生産され、1948年に陸軍から独立したアメリカ空軍でも「F-24戦闘機」として1年ほど運用された。
余談
台南海軍航空隊のエースとして知られる坂井三郎は、SBDの編隊を後部銃座のないF4F戦闘機と誤認し、不用意に後方に接近して銃撃を受け、片目をほぼ失明する重傷を負った。坂井はTBFに撃たれたと思っていたが、後にSBDだった事が判明した。
SBD-3からは後部銃座の旋回機銃は連装化され、敵戦闘機にとって危険な存在であった。