人物
いかりや長介(1931年11月1日-2004年3月20日)は、日本の芸能人で、ミュージシャン、コメディアン、俳優である。本名は、碇矢長一(いかりや ちょういち)。
音楽バンド兼お笑いコント集団、ザ・ドリフターズ(以下ドリフ)の三代目リーダー。
お笑いに関しては一切妥協がなく何度もリハーサルを繰り返し、シナリオを煮詰めてから本番に臨む事で知られていた。演者であるが『8時だョ!全員集合』と『ドリフ大爆笑』では、製作局のプロデューサーよりも発言力を持っていたともされる。この全員集合の企画会議は非常に重苦しい雰囲気の中で行われていたとされており、ドリフメンバー含む関係者は「地獄の企画会議」だったと振り返っている。
また、全員集合終了後に始まった加藤と志村のコンビの後番組「加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ」に対して「こんな手法があったのか」と感心したという。
コント集団としてあまりにも有名になってしまったドリフだが、いかりやはベーシストとしても知る人ぞ知る名演奏者であった(「関連動画」参照)。ベースをコントラバスの様に立てて弾く独特のスタイルは彼の名から「いかりや奏法」の名がつけられている。
一方で、強烈なワンマンぶりは時にメンバーとの軋轢を起こしたという。特にミュージシャン志向の強かった高木ブーとは一時期そりが合わず、高木が脱退を考えていた時期もあったという。(一方のいかりやは高木の能力を高く買っており、高木だけは止めさせようと思ったことが無いと語っている)
その時、新メンバーにと打診されていたのが、サザンオールスターズの桑田佳祐だった。
また、ギャラを均等に配分せずピンハネしていた事もあり、メンバーの反発を受けた事もあった。
とはいえ、昭和のお笑いの牽引役として果たした功績は非常に大きく、その飽くなきクオリティの追求はメンバーの認めるところであり、ドリフを超えるお笑い芸人が全然存在しない証左でもある。俳優として活躍していた60代でも『大爆笑』にて加藤・志村に水をかけられたり、たらいやドラム缶で頭をぶつかられたりと率先して体を張って笑いをとっていた。
いかりやがリーダーのいわゆる新生ドリフの結成40周年の際には、加藤茶との会話で『全員集合』と『大爆笑』をもう一度撮ろうという話がされ、他のメンバーも乗り気になっていたという。
『大爆笑』では『全員集合』のコントの復刻が行われたりしたが、晩年のOPの新規収録が彼の最後の出演となってしまった(死の3ヶ月前だったという)。この時の収録では別のスタジオにいた浜田雅功が収録をしているという話を聞き付けてスタジオに顔を出してドリフメンバーが揃っている事に驚きつつ感動していたエピソードもある。なお、このOP収録時のいかりやは髭を生やしていたのだが、加藤は浜田が訪れたエピソードが紹介された番組で「長さん髭無いと(痩せこけた顔になって)やばかったよな」と最晩年のいかりやが既に病に冒されていた事を振り返っている。なお、この時いかりやはいつ倒れてもおかしくはない身体でありながら新規収録を望んでいたという。
ちなみに「次も一生懸命頑張ります!ごきげんよう!!」のおなじみの〆が無かったのだが、もうこの時は往年のように満足に声を出すのができていなかった。
彼の特徴であった下唇の分厚さ(真似される時、結構誇張されていたが)は加齢と共に目立たなくなってしまっていった。
ドリフとしての活動が下火になった晩年は、コメディアン色をガラリと払拭し、NHK大河ドラマ『独眼竜政宗』で伊達政宗の父・輝宗に仕える老将・鬼庭左月を好演、以後も渋めの役をこなす俳優としてテレビドラマ、映画に出演した。特に『踊る大捜査線』ではベテラン刑事の和久平八郎を演じ、リアルタイムで「ドリフ」を知らない世代にも名の知れる存在となった。
志村との不仲説が一時期囁かれていたが、いかりやの長男によれば晩年の数ヶ月に志村が率いる喜劇舞台を観に行っていた事や何枚か書き貯められたメモの中には志村があってのドリフだった事への感謝が書かれていたという。
なお、最後のドリフ大爆笑EDの時に志村がカメラに背を向けてスクールメイツの方に行きおちゃらけるのだが、この時いかりやがもう長くない事を察し思わず背を向けて我慢できず涙していたのではないかという説がある。
2004年、リンパ腺癌の為逝去、享年74(満72歳没)。