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宗谷(船)の編集履歴

2018-07-25 00:26:42 バージョン

宗谷(船)

そうや

「宗谷」は、数奇な経歴をたどった日本の砕氷船である。昭和の戦前・戦後にわたって活躍し、「幸運の船」「奇跡の船」「不可能を可能にする船」など多くの二つ名を持つ。

「宗谷」(巡視船としての船番号はPL107)は、昭和の戦前・戦後の長きにわたって活躍した日本の砕氷船である。1938年進水・竣工。第二次世界大戦中は旧日本海軍所属、戦後は主に海上保安庁所属として活躍した。


「宗谷」の名を冠する船は、日本海軍の艦船としては2代目、海上保安庁の船としては初代。鉄道省の稚泊連絡船「宗谷丸」(後国鉄の青函連絡船)とはよく混同されるが、別の船である(宗谷丸については「幸運船」の記事で紹介されている)。


概要


「宗谷」は、本来ソ連向けの商船として建造されながら、特務艦や灯台補給船、巡視船(南極観測船時代含む)として各地の海を駆け回り、昭和史の節目の多くに関わってきた船である。


巡視船任務を後継のPLH01「そうや」に引き継いだ後も船籍を残しており、海上に現存する最後の旧日本海軍艦船でもある。

(三笠は岸壁に埋められており建造物扱い。氷川丸は徴用船であり海軍に在籍していたわけではない)。


商船・特務艦艇としての経歴も持つが、(南極観測船時代を含め)海上保安庁の巡視船時代が長く、退役時まで海上保安庁を代表する船として扱われていたことから、親記事を「巡視船」としている。「宗谷」は巡視船として唯一の保存船でもあり、従って現存する最古の巡視船ということになる。


後述のように、「宗谷」が長い現役期間の間に携わってきた任務は非常に多岐にわたり、良く知られた南極観測はその一部でしかない。なお「宗谷」は砕氷艦として紹介されることがあるが、海軍時代に類別されていたのは特務艦艇のうちの「雑用運送艦」(この艦種に類別されたのは帝国海軍の歴史の中でただ一隻「宗谷」のみ)であり、砕氷任務もこなしていたが南洋での任務も多く、砕氷艦として類別されていたわけではなかった。


トップ画像は、南極観測船時代の「宗谷」の姿である。


昭和戦後の子供たちからは大変人気のあった船であり、本船を主人公としたTVアニメ『宗谷物語』が国際映画社の手によって制作され、1984年2月から6月にかけてテレビ東京系列局および福岡放送(当時は日本テレビ系列)他にて放送された。「船」そのものが主人公になったアニメ作品というのは前代未聞であり、現在に至っても他に例がない(アニメ『氷川丸ものがたり』の主人公は氷川丸ではなく平山次郎という少年である)。


また、1978年の巡視船引退にあたって南極観測船時代をモチーフにした「さよなら宗谷」なる歌が創作されるなど、まさに昭和の日本を代表する船であった。


経歴


特務艦 宗谷

「宗谷」の変遷。

左下(進水時)→中下(商船時)→上(特務艦時)→右下(南極観測船時)へとその姿を変えた。

特務艦 宗谷


生い立ち


1936年9月18日、川南工業はソビエト連邦通商代表部から3隻の耐氷型貨物船の発注を受け、1936年12月7日に長崎県川南工業香焼島造船所にて3姉妹の2番船、後の「宗谷」である107番船が起工、1938年2月16日にソ連船「ボロチャエベツ」として進水する。

当時、物価の上昇などの影響のため工事は遅れに遅れ起工したのは2番目にも関わらず、進水は最後となった。

3隻の引き渡しに伴い、ソ連はロイド船級協会の規格に沿った性能を3隻に要求し、一番船ボルシェビキをロイド船級協会極東主任検査官立会いのもとで公試運転したところ、性能不十分で不合格と判断された。

建造中はソ連から派遣された技師に厳しく監視されていたにもかかわらず、なぜこんな出来になってしまったのかといえば、造船所自体が再開して間もない上に、そもそも工員の半分が「元ガラス工」、要するに船作りに関しては素人の集団が作ったからなのかもしれない。

(なお本船は1938年7月にロイド船級1A耐氷型に合格している)


本船と姉妹船は霧深い北方海域を安全に航海するため最新鋭のイギリス製音響測深儀(ソナー)が装備されていた事もあり、砕氷艦「大泊」の後続を建造するまでの繋ぎとして日本海軍の興味を引き、川南工業との売却交渉に入る事となる。

最終的に3隻のソ連への引き渡しは中止となったが、当然ながら本船を発注したソ連とトラブルとなり、違約金の支払いを求めるソ連との裁判沙汰となり外交問題にまで発展、1941年に外交決着した。

そして「ボロチャエベツ」は名前を変え、1938年6月10日に日本の商船「地領丸」として竣工したが、引取り先がないために3隻は川南工業運用のもとで栗林商船、日清汽船等にチャーターされ本土と朝鮮半島、千島列島で輸送業務に就き、川南工業と辰馬汽船が共同設立した辰南商船に移籍、しばらくして海軍への売却が正式に決まった。


この間日本の戦略が南方対米重視となった事もあり、3隻を海軍へ売却する計画は消えて1隻のみが売却される事となった。この1隻が3姉妹の中で最後に完成した地領丸だった。


地領丸は1940年2月20日に海軍へ売却され、「宗谷」の名が与えられて1940年6月4日特務艦として改装工事完了。測量・輸送任務につく。


なお、帝国海軍の歴史を通じて陸海軍に徴傭された商船は多く、その中には特設艦船として改造された船も少なくないが、正式に軍籍に編入された船は「宗谷」だけである。


帝国海軍で「宗谷」の名が与えられるのは2代目であり、初代は日露戦争時に鹵獲した帝政ロシアの防護巡洋艦ヴァリャーグである。


宗谷と姉妹船たち


起工時 進水時ロシア名 意味 就役時の名前

106番船 ボルシェビキ ソ連共産党 天領丸

107番船 ボロチャエベツ ボロチャエフの戦友 地領丸(宗谷)

108番船 コムソモーレツ 共産主義青年同盟 民領丸

※ボロチャエフはロシア内戦で赤軍と白軍の戦闘があった場所の地名。


特務艦「宗谷」


日本海軍特務艦 宗谷


海軍時代は横須賀鎮守府付属・第四艦隊・第八艦隊・連合艦隊付属と様々な場所へ配属され、紀元二千六百年特別観艦式、南方作戦、ミッドウェー海戦、第一次ソロモン海戦などの作戦にも参加。測量、威力偵察、気象・海象観測、掃海、輸送、上陸支援、砕氷などなど多岐にわたる任務に従事した。


「宗谷」は中央気象台(戦後は気象庁)の「凌風丸(初代)」とともに、戦前の観艦式と戦後の観閲式の両方に参加した数少ない船の一隻である。


強運艦


「宗谷」は太平洋戦争中他の船艇が全滅するような困難な任務に何度も投入されながら戦後まで生き残った突出した強運艦として有名である。


以下、特務艦時代の代表的なエピソード。


魚雷が避けるのは普通で、魚雷が船底を通り過ぎる、または魚雷が命中しても不発(2回経験)。 船体に突き刺さった不発の魚雷を甲板に引き上げて記念写真を撮影した事も。停泊中に空襲に遭い、回りの船が沈んでいく中、損害軽微で健在。B-24やP-38と交戦した事も。

ブラウン島からクェゼリンへ向かおうとしたところ、前任の艦長から「クェゼリンは食料不足なので辞めたほうが良い」との助言を受けトラック島へ向かった所、クェゼリンに米軍が上陸、クェゼリンの戦いが始まった。トラック島へ向かう事は決まったが、トラック島はブラウン島よりも前線に近く危険であり、ブラウン島での測量任務も残っていたため、測量隊をブラウン島に残してトラック島へ向かうこととなった。測量隊は運の良い「宗谷」と離れるのを嫌がり「置いて行かないでくれ」と頼んだが「必ず迎えに来る」と約束してトラック島へ向かう。その後ブラウン島に米軍が上陸、ブラウン島にいた日本軍は玉砕した。

トラック島空襲では回避行動中に座礁し、機銃掃射を浴びて10名が戦死、総員退艦命令が下され無人で放置された。その後の攻撃で船団の他の船が次々と沈む中、機銃掃射で船体に無数の穴が開いていたが、沈む事なく自力航行可能な状態だった。無人の「宗谷」は満潮時に自然脱出、漂流している所を乗員が飛び乗って日本へ無事帰る事ができた。

1944年5月には北千島に向かう戦車第十一連隊第四梯団を雪風と共に護衛して大湊から幌筵島柏原に赴いている。この時、「宗谷」の姉妹船である「天領丸」もいた。


日本軍の敗色が濃くなった大戦末期には、宗谷が測量すべき海域、支援すべき上陸作戦も無くなり、もっぱら輸送任務に就く事となった。 敵機動艦隊や潜水艦部隊が待ち構える太平洋の横須賀と北海道を結ぶ輸送ルートは特攻輸送と呼ばれ、非常に危険であった。船団の他の艦艇が次々沈む中、「宗谷」が被害を受ける事はなかった。

1945年8月2日、横須賀でドック入りしている時に戦艦「長門」、病院船「氷川丸」と共に空襲を受ける。米軍機からガソリンタンクを機関室に投下され、一面ガソリンまみれになるが、ボイラーに火を入れていなかったため難を逃れる。

8月2日、横須賀第四ドックに入渠中に空襲を受けた「宗谷」は、横須賀鎮守府の待避命令に従い、翌3日標的艦大浜を伴って横須賀を発し、4日女川港に大浜を置いて、最後の輸送任務のため室蘭へ単艦で出航、八戸を経て8月8日午後5時に室蘭に入港。ここで8月15日の終戦を迎えた。

室蘭に向かう道中、敵機動部隊に接近されるが、急に濃霧が立ち込めて視界がゼロに。「宗谷」は「神の衣」と乗員に呼ばれた濃霧を利用して敵中突破し、8月7日八戸港に無事入港。敵機動部隊は8月9日に女川と八戸を空襲しており、出港が遅かったら「宗谷」も沈んでいたかもしれない。


海軍在籍時に潜水艦2隻撃退(共同戦果含む)、飛行機1機撃墜の戦績を有しており、特務艦としては珍しい武勲を上げている。


軍籍に入った「宗谷」は、艦艇での軍事行動には欠かせない海図を作成するために様々な海を測量して周り、現在の海図にも「宗谷」が測量したことを示す「SOYA」と名付けられた礁が多く存在する。

商船改造の軍艦ではあるが、歴代艦長は大佐もしくは中佐と巡洋艦などの艦長と同じクラスの軍人が指揮を取った。

このためか小さい船のわりには士官用の設備もあったため、駆逐艦などよりも豪華な内部施設だった。

ただ、やはり軍に入隊したにもかかわらず商船改造の「宗谷」に乗り込む兵士は「こんなかっこ悪い船に乗るのか?」と落胆した者も多く、いざ乗ってみると揺れる船体に加えて速度も遅く、乗組員には相当なストレスを与えていたようだ。

だが、「宗谷」の運の良さがわかってくると「『宗谷』に乗っている事が最大の幸福に思えてきた」と戦後に多くの乗組員が語っている。

足が遅いと言われた「宗谷」の巡航速度は、わずか8.5ノット(時速約16km/h)。最高速も12ノット(時速約22km/h)と凄まじく遅かった。

戦時急造輸送船よりも遅いので艦隊行動が出来ず、単艦で先に出港していながら僚艦に途中で追い抜かれるのは「宗谷」の恒例行事であった。

ここまで足が遅いにもかかわらず、なかなか攻撃が当たらなかったのは砕氷船ゆえの特殊な形状の艦首が派手な波飛沫を生み出し、これが敵に速度を誤認させたのではないかと言われている(実際、砕氷船の太平洋戦争中の生存率は他の船艇に比べて高い。もっとも「高島丸」ほか戦時中に沈んだ砕氷船も多いが....)。「宗谷」の足の遅さは釣りをするには最適だったようで、航海中に釣りを楽しむ乗組員も多かった。

対潜戦闘には欠かせない爆雷を「宗谷」も積んでいたが、爆雷投射機がないので甲板から足で蹴り落としていた。

更には、爆雷が水中を沈降して規定深度で爆発するまでの間に安全圏まで逃げられないほど足が遅かったので、爆雷には水中でゆっくり落ちるように落下傘がついていた。


「宗谷」が戦時中に非常に幸運に恵まれたのは事実ではあったが、その乗組員には戦死者もあれば悲劇もあった。トラック島空襲では乗組員が「子供に会うまでは絶対に死ねない」などと死亡フラグを立てまくった上に、艦橋に機銃掃射を受けてしまったために天谷嘉重艦長は重傷、副長は戦死、座礁した状態で全ての弾薬を使い切ったために航海長が総員退艦命令を下し、船と共に心中しようとした艦長を引きずり出して避難したが、「宗谷」は生き残った。


この事は幸運にも思えるが、その裏では天谷艦長は艦を放棄した責任と測量隊全滅の責任を取らされ更迭、後に拳銃自殺してしまうという不幸があった。


なお、「宗谷」の姉妹船の最期は以下の通りである。

天領丸 1945年5月29日 米潜水艦「スターレット」の魚雷攻撃により北海道宗谷海峡にて沈没、戦死者800名以上

民領丸 1944年2月14日 米潜水艦「フラッシャー」の魚雷攻撃によりフィリピンベルデ海峡にて沈没、戦死者4名


「宗谷」には現在も特務艦時代の戦友会である「軍艦宗谷会」が存在し、日本で唯一船が現存している戦友会でもある。


引揚船「宗谷丸」(S119)


戦後、一時GHQに接収された「宗谷」は間もなく日本に返還され、第二復員省所属の特別輸送艦(船舶運営会所属の引揚船)として台湾、ベトナムのサイゴン、葫蘆島、樺太からの引揚輸送を担い、1万9000人以上を舞鶴、北海道へと運んだ。


1946年3月23日台湾の高雄からの引揚者輸送中、船内で女児誕生。名付け親になった船長は「宗谷」の一字をとって宗子(もとこ)と名付けた。


GHQより返還されSCAJAP番号S-119が与えられた際、名前が一時期「宗谷丸」となり、国鉄連絡船の「宗谷丸」と名前が完全にかぶってしまい、一部の資料ではどちらの船を示すのかわからなくなっている。なので、「宗谷」船内で生まれた宗子さんは2人いる可能性もある。(朝鮮半島引き上げの際にも出産したと証言がある。同時期「宗谷丸(国鉄)」は国鉄の連絡船として復帰していたので「宗谷(特務艦)」であった可能性は高い)

高雄からの引き上げの際に船内で生まれた宗子さんは、宗谷が南極観測船として改造を受けた後にテレビの企画によって当時の「宗谷」の乗組員との再開を果たしており、1978年の解役式にも参加している。


1948年5月1日、運輸省の外局として水路局、燈台局、保安局からなる海上保安庁が発足、水路局の測量船とすることを目的に「宗谷」の獲得運動を開始した。


灯台補給船「宗谷」LL01

灯台補給船宗谷


引揚任務終了後、「宗谷」は商船風に外見を改め、真岡-函館間の輸送業務に従事していた。

1949年8月1日、「宗谷」はGHQより正式に帰還業務を解かれた。


海上保安庁燈台局は民間からチャーターし灯台補給船として使用していた第十八日正丸を返還するに伴いその代船を捜していた。この任務は当初「大泊」が割り当てられるはずだったが、老朽化が激しいため廃船、水路測量船として海上保安庁への所属が内定していた「宗谷」が候補に上がった。


8月13日に来訪した海上保安庁の係官福井静夫により調査された「宗谷」は使用可能と判断され、11月に小樽より東京港竹芝桟橋沖に回航された「宗谷」は、12月12日付で海上保安庁へ移籍した。創設まもない海上保安庁の保有する船艇の中で「宗谷」は最大の船となった。


石川島重工業で改装工事に着手、1950年4月1日に改装を終え、第7代目灯台補給船LL01「宗谷」となった。なおこの時期、船名が「そうや」と平仮名表記されている時期もあった。


灯台補給船時代に改修工事により船橋の構造が現在の物に近い形になり、煙突がやや長くなっている。


灯台補給船とは、岬の先端や離島といった交通困難地に立つ灯台に対し、年に1回発電機の燃料や灯台守の生活必需品を海上から補給する任にあたるものである。

当時全国には461基の灯台があり、このうち60数基が海上補給を必要とするものであった。

4月20日〜6月6日、第一次補給航海を実施した「宗谷」は、南極観測船転用のため灯台補給船を解役されるまでの5年半この任にあたった。

1951年7月、日本海洋少年団連盟の結成式に参加、東京湾一周の公開訓練を行った。

灯台補給船時代の「宗谷」の異色の任務が奄美群島現金輸送である。アメリカ統治下にあった奄美群島が1953年12月25日に日本に返還される事になり、それに伴い9億円の現金と通貨交換業務要員の輸送をするというものであった。12月20日、鹿児島を発した「宗谷」は21日名瀬に入港、各島を回り、25日に名瀬に帰港。27日には「日本復帰祝賀式典」に出席した国務大臣一行を乗せ、28日に鹿児島に戻った。明けて1月3日、再び名瀬に向かい、各島で米軍統治時代の軍票を回収し、通貨交換業務要員を乗せ、1月9日に鹿児島に帰還した。

「宗谷」は灯台守からは「燈台の白姫」、「海のサンタクロース」と呼ばれ、多くの海上保安庁職員に愛されていた。


1956年に公開された映画『ビルマの竪琴』では復員船として出演。なお、1957年に公開され大ヒットした映画『喜びも悲しみも幾年月』には、白く塗られた灯台補給船時代の「宗谷」が登場する...と言われることがあるが、宗谷は当時既に南極観測船に改造されており、映画に登場する白い補給船は後任の「若草」である。


「宗谷」を建造した川南工業は戦時標準船の大量建造で造船大手となったが、船舶設計能力に乏しく戦後の造船需要に対応できず、1950年に破産、1955年に倒産した。本拠とした香焼島造船所は三菱重工へ売却、現在の三菱重工長崎造船所香焼工場となった。


巡視船「宗谷」PL107


南極大陸~神の領域に挑んだ男と犬の物語~(仮題)


南極観測船への改造


朝日新聞記者矢田喜美雄の発案により日本学術会議の協賛を得て、1957年7月1日から1958年12月31日に開催される国際地球観測年(IGY)にあわせて日本は南極観測を行う事にし、1955年7月に開催された第1回南極会議に文書で南極観測参加の意志を伝えた。敗戦国という事もあり当初は参加に反対する声もあったが、米ソが賛成する形で日本の参加が認められ、同年11月に当時の鳩山一郎内閣が南極観測への正式参加を閣議決定した。


南極観測船の候補としては、国鉄の連絡船「宗谷丸」が当時国内に残存した砕氷船として最も高い能力を持っていたが、大型であるがゆえに改造費が増大する事が予想され、国鉄との間の金銭的な決着がつかなかったために、同年11月海上保安庁の灯台補給船「宗谷」の使用が正式に決定された。


日本が担当する南極の観測地域は、プリンスハラルド海岸一帯で過去に欧米各国が上陸を目指して接近するもすべて失敗、当時の米海軍は上陸不可能と判断し「接近不可能」とした地である。現在でも南極の難所と知られ、最新技術の粋を集めて建造された第4代南極観測船「しらせ(2代目)」ですら昭和基地への接岸に失敗する事すらあるほど。


選考理由の一つには戦時中の運の良さもあり、「宗谷」の持つ強運に南極観測の運命を託したのかもしれない。


「宗谷」が南極観測船になることが決まると、「宗谷」に深い愛着を持っていた多くの灯台守やその家族に惜しまれることになった。海上保安庁灯台部の土井部長は、灯台補給船の解任式で「灯台部として宗谷と別れるのは忍びがたいが、国民に少しでも明るい希望を与えることができるなら、誇りを持って宗谷を南極観測船にご用立てしようではありませんか...」と涙ながらに「宗谷」に別れを告げた。


11月24日〜12月12日には三菱日本重工横浜造船所のドックで総点検が実施された。

12月24日に灯台補給船としての解任式が行われ、同日をもって巡視船(PL107)へ種別変更された。(一般に南極観測船として知られる本船だが、海上保安庁での扱いは大型巡視船だった)

1956年3月12日に日本鋼管浅野船渠で南極観測船への改造工事に着手し、10月17日に竣工した。日本鋼管浅野船渠は、過去に「宗谷」がトラック島空襲のあと修理を受けた場所でもあり、また砕氷船建造のノウハウがあったことから、「宗谷」の後継船(艦)である「ふじ」「そうや」はいずれもここで建造されている(1995年閉鎖)。


この改造の要点は、砕氷能力の30センチから1メートルへの引揚げ、南極往復を可能とする航続距離を持たせる事で、以下の工事が実施された。

改造のための設計は牧野茂が担当、あの戦艦「大和」を設計した技師の一人だった。


両舷にバルジを設け、船体を二重外板にするとともに復原力を増す。

船首部は板厚25ミリの鋼板製で喫水線に対し傾斜角27度の新船首とし、他の主要外板も旧外板との合計板厚が25ミリとなるよう二重張りとする。

主機械は、2,400馬力ディーゼル・エンジン2基とし、2軸推進とする。

航続距離15,000海里、連続行動60日分の燃料と清水を搭載する。

乗組員、観測隊員130名が乗船し、観測資材400トンを搭載する。

小型ヘリコプター2機の格納庫及びヘリ甲板とセスナ機の架台を設ける。


「宗谷」は原型を留めぬほどの改造を受け、最新の設備が積み込まれた。

この改造工事で取り外された1軸スクリュープロペラは兵庫県の海技大学校に展示されている。


この改造で船首に書かれた「宗谷」という船名の書体は海上保安庁規定の物から、当時の海上保安庁の長官が書いた船名を元にした書体に変更されている。海上保安庁で長官の書いた文字が船名になるのは、現在まで「宗谷」を含め2隻のみである。


宗谷、南極へ


1956年11月8日、東京晴海埠頭で1万人以上の大群衆に見送られ、宗谷は第1次南極観測隊員53名、「宗谷」の乗組員77名、樺太犬22頭(オス犬20頭・メス犬2頭)、猫1匹、カナリア2羽を乗せ、南極まで2万キロの日本人の底力を示す運命の航海が始まった。

(この時乗っていた猫は三毛猫のオスであり、航海の安全を願って「宗谷」に乗せられた。南極へ向かう途中で「タケシ」と命名され第一次越冬隊に参加後、日本へ無事帰国した後に行方不明となっている)「宗谷」は出港してすぐの11月15・16日にフィリピン西方洋上で台風19、20号にダブルで遭遇、横揺れが38度・縦揺れが20度にも達し、「宗谷はえらく揺れる船」という評判に。

更にこの時、搭載していた水上機も破損してしまった。

この揺れの原因は、通常の船舶にに取り付けられている横揺れを大幅に軽減するビルジキールと呼ぶ細い板が、氷を割るのに邪魔という事で取り払ってしまっていた事に起因する。激しい揺れにより不安に陥った隊員達は「戦時中宗谷が沈まなかったのは艦内の宗谷神社のおかげ」とアドバイスされた事を思い出し、戦後取り払っていた艦内神社が艦橋に再び鎮座する事になる。

第一次南極観測では、東京水産大学の練習船「海鷹丸」(2代目)が随伴船として共に南極海へと向かい、「宗谷」の行動をサポートした。


1957年1月24日、「宗谷」は南緯69度東経39度の地点に接岸に成功し、1月29日観測隊はオングル島に公式上陸してここを昭和基地と命名、「宗谷」の強運は不可能を可能にした。

帰路で厚い氷に閉じこめられ帰れなくなるが、「海鷹丸」の誘導で救援に到着したソ連の砕氷艦「オビ」に無事救出される。


日本への帰還中の1957年3月4日、ケープタウン沖の暴風圏で「宗谷」は最高片舷62度に及ぶ横揺れを記録した。


第二次南極観測では、第一回の反省を踏まえ出港を1ヶ月繰り上げたものの南極の分厚い氷に阻まれ、ダイナマイトによる発破を繰り返しても航路を切り開けず昭和基地への接近に失敗、スクリュープロペラの1翼が根本から折損、その後、自力で氷海を脱出しアメリカ海軍の砕氷艦「バートン・アイランド」の支援を受けて昭和基地へ再接近を試み水上機を使い越冬隊を救助するも、樺太犬の救助に失敗。

これがタロとジロの悲劇につながる。

昭和基地への直接接岸による物資輸送を諦め、大型のヘリコプターを用いた航空輸送に対応するために大型の飛行甲板を増設、排水量2700トン弱の船体にヘリコプター4機と水上機1機を積み込むミニ空母のような状態になった。なおヘリコプターを搭載した船は「宗谷」が日本初であり、本船での経験は海上保安庁および海上自衛隊のヘリコプター搭載艦船運用の礎となった。


第四次南極観測では、第一次観測で「宗谷」の救助に当たった「オビ」との共同観測となった。


南極観測船時代のエピソード


船内では様々な催し物が行われた。赤道祭や持ち寄った楽器で音楽会、酒保「みどり」や酒場、ヘリ甲板で映画を上映する「テアトル宗谷」地質学や航海術などを講義する「宗谷大学」など

1956年12月5日、第一次南極観測で南極へ向かっている途中、インド洋上で幻の流星群に遭遇。ほうおう座流星群と名付けられ1時間に500個程度の流星が出現する派手な流星群だったと言われている。この流星群は100年以上行方不明だったブランペイン彗星である事が近年判明した。2014年12月2日に小規模ながらも再出現した。

特務艦時代に引き続き船上では釣りが行われ、インド洋ではトビウオが船内に飛び込み日本の遠洋漁業船が鮪を南氷洋では捕鯨船団からクジラ肉を「宗谷」へ直接寄付している。

「海鷹丸」船長から「宗谷」が通った後は魚の道ができると言われる。

第一次南極観測ではコウテイペンギンを持ち帰ろうとしたが、「オビ」の救助が到着する前に南極へ返してしまったので失敗している。代わりにケープタウンでケープペンギンを購入して日本へ持ち帰っている。

第一次南極観測時、当時柔道が流行っていたケープタウンにて柔道五段の「宗谷」乗組員が柔道の講習会に招かれた時に空手の型を披露しそれが南アフリカの空手文化の始まりとなった。

第二次南極観測では救助に来た「バートン・アイランド」が氷に乗り上げてしまったので「宗谷」が救助しようとした事があった。「バートン・アイランド」と「宗谷」をつなぐ綱は切れて失敗した翌日「バートン・アイランド」は氷を爆破し脱出に成功した。

第ニ次南極観測の往路で正体不明の大型生物を目撃「南極ゴジラ」と呼ばれている。

改造工事中に伊勢湾台風の上陸が予想されため改造途中でドックを出て他の船とともに沖合で避難していた所、ヘリ甲板が風にあおられ錨の固定が外れて流されている。運良く他の船には衝突しなかった。

第三次南極観測時に海上保安庁長官が第二次では消えていた「宗谷」を守る幸運の星が復活しているから第三次観測は成功すると明言される。

第四次南極観測時シンガポールに向かう途中アメリカ海軍の機動部隊や台湾海軍の艦隊に遭遇している。

第四次南極観測ではケープタウンで豚を二頭購入して昭和基地で繁殖させようと持ち込まれたが寒さに耐え切れず死んでいる。

第四次南極観測からの往路でケープタウンへ寄港した際にベルギー隊からグリーンランド・ハスキー犬をプレゼントされている。名前はベルカ(またはベルジカ)

1960年4月16日、米占領下にある沖縄からの要望で第四次南極観測の帰途に那覇に寄港した。

当時放映されていたドラマ「月光仮面」の背景に南極観測船時代の「宗谷」が偶然写り込んでいるシーンがある。

ケープタウンに寄港すること12回、その都度一般公開を行い人気を博し、南アフリカ共和国から宗谷型砕氷船の建造を日本に依頼するまでに至った。


タロとジロの悲劇や隊員の死など様々な出来事を乗り越え、「宗谷」は派遣回数と同じ回数の修理・改装を繰り返し、6回の観測任務を務め上げ1962年4月17日南極観測終了により南極観測船としての任務を終えた。


1965年南極観測再開に伴い、南極観測船任務を後継の「ふじ」に引き継いだ。


「北の海の守り神」


南極観測船としての任務を終えた「宗谷」は、伊勢湾で開催された観閲式に参加。他の巡視船を従え運輸大臣・海上保安庁長官を乗せ、海上保安庁の事実上の旗艦としての雄姿を披露した。


通常の巡視船としての任務に就くことになった「宗谷」は、1962年6月15日、日本鋼管浅野船渠に入渠、観測機器や航空機関係の重装備を撤去した。


8月1日に改装工事を終えた「宗谷」は、関東地方を管轄区域とする第三管区海上保安本部に着任した。

第三管区海上保安本部に着任した宗谷の最初の任務は、三宅島の雄山噴火で避難していた児童・学童を三宅島へ帰還させることだった。元南極観測船に乗れると子供達は大喜びだったという。

1963年4月1日、北海道を管轄地域とする第一管区海上保安本部に移籍した。この際、第一管区海上保安本部所属の船艇を集めて観閲式が行われた。

巡視船としての「宗谷」の任務は、海洋調査、漁業監視、救難、医療支援、流氷速報、災害救援など多岐にわたる。さらには海上保安官候補生を乗せる実習船として長距離練習航海に出ることもあった。

1970年3月16日には、釧路保安部の緊急指令を受け択捉島単冠湾に出動、流氷群に前進をはばまれ猛吹雪の中で航行不能になった漁船群19隻の捜索救難活動に当たり、生存者84名の救出に成功。

1975年8月対馬丸海上慰霊祭及び沖縄国際海洋博覧会に派遣。

退役直前の1978年3月10日には稚内港の流氷を粉砕し、漁船を外洋に誘導する緊急任務を受け色丹島沖から急行、3月12日に41隻の漁船を外洋に誘導した。

竣工から40年が経過した1978年7月にはついに解役が決まり、全国14の港を巡る「サヨナラ航海」8月3日〜9月3日を行い、1978年10月2日竹芝桟橋にて解役式を迎え現役を退く。解役式に海上保安庁の長官が出席したのは、現在のところ「宗谷」のみである。

「宗谷」の巡視船としての海難救助出動は350件以上、救助した船125隻、1000名以上の救助実績をあげ「海の守り神」という異名を持つ事になった。


現役時代の末期は維持費節約のため各所メンテナンスが疎かとなった結果、船長室での雨漏りやレーダーのブラックアウト、操舵輪が外れるなど次々問題が起きていたが、後続の砕氷巡視船設計のためにベル212型ヘリコプターの離着船実験や次世代南極観測船設計の砕氷実験などが行われていた。


「宗谷」退役に伴い、ヘリコプター搭載巡視船が2年計画で建造され、名を襲名した砕氷巡視船PLH01「そうや」が1978年11月に就役した。1971年には海上自衛隊で機雷敷設艦「そうや」が就役、1996年に退役している。巡視船「そうや」は1978年7月に進水しており、海上保安庁に同名の船が2隻存在していた(あるいは今も存在する)ことになる。「そうや」と「宗谷」は海上保安庁では「2代目そうや」「初代宗谷」と呼ばれて区別された。


保存船 宗谷


引退の決まった「宗谷」は、稚内市をはじめ各地の自治体から誘致された。しかし船の保存には莫大な維持費がかかるため「宗谷」の保存先は慎重に検討され、東京・品川区の船の科学館で永久保存展示されることが決まった(自治体が管轄していた保存船は保存コストを理由に「こじま」をはじめ多くが解体・撤去の憂き目をみているため、財政状況に比較的余裕のある日本船舶振興会(現:日本財団)という後ろ盾を持つ船の科学館に保存先が決められたのは、今から振り返っても賢明な選択だったといえる)。当時の館長笹川良一は「不可能を可能にした強運と奇跡の船」と称えた。


1979年、「宗谷」は浅野ドックにて南極観測船時代のアラートオレンジ色に塗り直し、4月中旬に東京お台場の船の科学館前面海域に移動した。その後4月いっぱいで船籍を抹消し5月1日から博物館船(建築物)として船の科学館で一般公開を開始する予定だったが、公開間際に建設省から不特定多数の見学者を迎えるには引退した船といえど建築基準法の適用を受けなければならないという判断が下され、建築基準法に適用した船内の改装が行われない限り一般公開の延期を求められたが、船の科学館側が交渉をおこない船籍を抹消せず維持したままなら甲板上だけの公開が暫定的に認められ、5月1日甲板上の一般公開が開始された。


「宗谷」に建築基準法に適合した改装を施した場合、「三笠」のように現役時代の面影が無い「船の形をした記念館」になり果ててしまいかねなかったのだが、宗谷会と南極OB会、船の科学館館長が国に働きかけ、翌年建築基準法と船舶安全法が改正され海上に係留されているかぎり船は船ということで、船籍を保有し船舶安全法を満たしていれば船内の公開ができるようになったので船籍を維持することになった(これにより毎年定期検査及び中間検査を受けている)。


1980年7月20日専門委員会の評定を受けた建設大臣の許可を得て船内の一般公開を開始。

1983年日本フローティングシップ協会設立と同時に所属(フローティングシップとは海上に浮かべて繋留し、保存、公開している歴史的に価値がある船のことをいう) 。


1996年前年にゆりかもめ開通および南極観測開始40周年の影響もあり年間約90万人が訪れた。同年大規模な修復工事が行われた。


2006年には南極観測50周年を記念して「宗谷」とタロ、ジロが写った切手と記念硬貨の発行及び、南極OB会から初代「しらせ」に「宗谷」の油絵が寄贈され、8月に見学者670万人突破、11月8日には宗谷南極観測出港の再現が「宗谷」で行われた。(「宗谷」の油絵は初代しらせ退役時に南極OB会に返却され、2008年11月に艤装工事中の2代目「しらせ」に寄贈された)


2008年2月16日には「宗谷」の戦友会「軍艦宗谷会」が中心となり、靖国神社より権宮司を招き誕生70年を祝う古希祭が執り行われた。 参加した人々は「宗谷」の建造や改造に関わった者、特務艦、復員船、灯台補給船、南極観測船、巡視船様々な時代の「宗谷」に関わった人々が集まった。


保存船としての「宗谷」は、現在も海上保安庁特殊救難隊の訓練所としても使われている。


現況


お台場・船の科学館に博物館船として係留されている「宗谷」は、コミックマーケットの帰りに簡単に立ち寄れる。「船の科学館」本館は老朽化により2011年10月に閉鎖され、「宗谷」と並んで保存されていた青函連絡船「羊蹄丸」も撤去、開館しているのは「宗谷」と屋外ミニ展示場のみとなった。永久保存が決まっている「宗谷」だけは保存工事が随時行われているものの、日本財団からの支援だけでは資金が不足しており、工事のために募金が募られている。


たび重なる改造により戦前の原型はほとんど残っていないが、船橋前から船内へ続く短い側舷外通路は建造当時からの形を保っている。


2014年、本船が係留されている船の科学館がクルーズ客船の客船埠頭となることが決まり、先行きが懸念されていたが、江東区の青海客船ターミナル横に移すことになり、2016年1月より宗谷の移設工事が開始された。2016年7月21日船の科学館より隣接桟橋への移設のため、9月1日から2017年3月31日の間、一般公開を一時休止することが発表された。

そして同年9月23日にタグボートや陸上のウインチによる曳航によって、移設は無事に完了した。自力航行ではないとはいえ、「宗谷」が動くのは実に37年ぶりの事であった。


宗谷さんお引越し…


2016年10月13日、巡視船PM89「たかとり」退役により本船が現役時に竣工した巡視船艇は全て退役した(「たかとり」は1978年3月24日に竣工し同年5月14日に「宗谷」が最後の観閲船を務めた海上保安庁創立30周年記念観閲式に最新鋭船として参加している)。これにより「宗谷」と入れ替わりで就役した巡視船PLH01「そうや」が海保船現役最古参となった。「そうや」は既に船齢35年を超えているが堅牢な船体・機関等はまだまだ第一線での任務に耐えるとして2009年度予算で大規模な延命工事を施されており、第一管区海上保安本部の基幹船として今後も長く活躍することが期待されている。詳細は当該記事に譲るが、2代目「そうや」もPL107から引き継いだ名に恥じない活躍をしており、初代「宗谷」からその類稀な幸運と長寿を引き継いだのであろうか。


pixivにおいて

pixivでも、第二次世界大戦の軍艦を擬人化したブラウザゲーム『艦隊これくしょん』(艦これ)が人気を呼ぶ以前から、多くの擬人化イラストが投稿されていた。


なお「宗谷」の擬人化の歴史は古く、1960年代に発売された『昭和基地物語』によると第二次南極観測に向かう途中行われた赤道祭の時に、観測隊員の手によってレーダーを簪に船体色を着物の色に見立てた姿で描かれたという。



関連タグ

宗谷 大泊 ふじ そうや ヴァリャーグ 幸運艦 異能生存艦

海上保安庁 海保船これ 艦娘たちの戦後 トラック島空襲 南極 南極大陸


こじま:旧鵜来型海防艦「志賀」。宗谷とともに保存船となっていた数少ない旧日本海軍艦船・巡視船であったが、こちらは船籍が抹消されていた上、消防法と建築基準法に抵触した事から1998年に解体されている。

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