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醍醐冬熙の編集履歴

2018-12-03 16:43:10 バージョン

醍醐冬熙

だいごふゆひろ

醍醐冬熙とは江戸時代中期の公卿

重要

主に東山天皇(113代)・中御門天皇(114代)・桜町天皇(115代)・桃園天皇(116代)の四帝にわたって仕え、官位は従一位、左大臣まで昇った。初名は冬実(ふゆざね)・昭尹(あきただ)。一字名は召。号は後信性普明寺。

プロフィール

時代 江戸時代前期
生誕 延宝7年5月4日(1679年6月12日
死没 宝暦6年10月9日(1756年11月1日
官位 従一位、左大臣
主君 東山天皇中御門天皇桜町天皇桃園天皇
氏族 醍醐家
父母 父:醍醐冬基
兄弟 醍醐冬熙徳大寺公全、綱姫(津軽信興室)
妻  宗義真の娘
子女 経胤大炊御門経秀室、広幡長忠

経歴

元禄元年(1688年)に従五位上に叙される。元禄9年(1696年)に従三位、左近衛中将となり公卿に列する。権中納言や踏歌節会外弁・右兵衛督を経て、宝永元年(1704年)権大納言となった。宝永5年(1708年)には皇太子長宮慶仁親王(中御門天皇)の春宮権大夫となる。翌年、皇太子の即位に伴い辞職。正徳元年(1711年)神宮伝奏に任じられ、享保11年(1726年)までの長期間にわたって務めた。その間の享保9年(1724年)には右近衛大将・右馬寮御監に任じられている。享保12年(1727年)には踏歌節会内弁をつとめた。享保13年(1728年)には内大臣となるも辞職。享保14年(1729年)には従一位が授与され、延享2年(1745年)には右大臣となるも辞職する。寛延元年(1748年)には左大臣となるも翌年に辞職している。

系図

後陽成天皇一条昭良醍醐冬基醍醐冬熙

系譜

冬煕の父醍醐冬基後陽成天皇の第九皇子(皇別摂家一条昭良の次男である。冬煕は後陽成天皇の曾孫の一人である。


父:醍醐冬基(官位は正二位、権大納言

母:不詳

妻:宗義真の娘

長男:醍醐経胤(1717-1781)

女子:大炊御門経秀

女子:広幡長忠

関連項目

朝廷 公卿 醍醐家 左大臣

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