金平鹿とは、日本の伝承に登場する鬼である。
なお、別の鬼ヶ城伝承では討伐されたのは海賊・多娥丸であったとするものもある。
概要
紀伊国熊野灘に面した鬼ヶ城では、かつて海が凪いでる時にしか近付けない断崖絶壁の岩屋に鬼神が棲みついて郷民を苦しませたという。
平城天皇の御世(806~810年)に鈴鹿山で鬼神(大嶽丸)を討伐した征夷大将軍・坂上田村麻呂がこれを聞き、討伐しようと兵を率い二木島を経由して船で岩屋へと近付いた。
これを察知した鬼の大将・金平鹿は手下を集めて「田村麻呂はものの数に入らないが、観音菩薩に守護されているので神通力が効かないかもしれない」と岩屋に食料を運び込み、石戸を閉めて籠城した。
これに田村麻呂が手をこまねいていると、菩薩の化身と見まがう童子が沖にある島に弓矢を携えて現れ、呼び込まれると「私が舞うから、兵の皆も一緒に舞おう」と船を並べて舞台を作り、その上で舞い遊んだ。
その楽しそうな騒ぎに金平鹿は石戸を少し開けて顔を出してしまい、その隙に田村麻呂は童子から授かった弓を引いて矢を撃つと、矢は金平鹿の左眼に命中すると、金平鹿の叫び声に岩屋の中から800人もの手下の鬼たちが飛び出してきたが、田村麻呂の放つ千の矢にすべて倒されてしまう。
千手観音の化身であった童子は光とともに飛び去った。
その後、田村麻呂は金平鹿の首を埋葬して大馬神社を、千手観音像を納めて清水寺(泊観音)を熊野の地に建てた。
童子が現れた島は後に魔見ヶ島(マブリカ)と呼ばれ、鬼の岩屋は有馬氏が城を建てたことから鬼ヶ城と呼ばれるようになった。
余談
三重県南牟婁郡御浜町に伝わる伝説では、四鬼の窟に棲んだ四鬼が村の子供をさらうなどしたため、人々は不安であった。
そこに鬼の岩屋で鬼の首魁を討伐した田村麻呂が甲冑に身を固め、馬に乗って討伐に来たという。