もしかして魔法騎士レイアースの登場人物?→デボネア(レイアース)
概要
初代
(左端の絵は、試作段階のテストカー)
1964年にデビュー。1987年まで22年間デザインの変更なく製造され、「走るシーラカンス」の通称で有名になった。
1970年にエンジン変更、1973年のテールランプ形状変更、1976年のラジアルタイヤ採用、オプションのクーラーをヒーター組み込み型にするなど、マイナーチェンジが行われた。
三菱自動車のフラッグシップであったことから三菱グループ各企業の重役専用車に使われたが、クラウン、セドリック、グロリアなどに比べると割高感があることからタクシー需要が見込まれず、非三菱系の企業に敬遠された。1970年代に入るとデザインの古臭さが目立ち、一般ユーザーに売れなかった。
生産終了からかなり後となる近年、古きアメリカ車風のデザインから旧車ファンの人気を集め、ローダウンや派手な塗装を行うなどの改造を行う車のベースにもなっている。希少価値がある車であることから、『こち亀』で「動く60年代の生き証人、現代の反逆児」などとネタにされた。
2代目(デボネアV)
1986年8月に登場した。
後継車を作るプロジェクトは計画を立てても頓挫するという繰り返しだった。1981年ごろには駆動方式をFFに決定したものの、V6エンジンは横置きしかなかった。そこにクライスラーから小型V6エンジン(※後の6G7x系エンジン)を採用すればよいのではと打診が入り、エンジンを年間45万台供給する契約を交わした。
また、当時三菱と提携していたヒュンダイが1988年のソウルオリンピックまでに自国製の高級車が欲しいという事情もあった。ヒュンダイはソウルオリンピックにおけるオフィシャルスポンサーだったが、VIP送迎車に使える高級車を作るノウハウがなかったため、ノックダウン方式前提の製造を三菱に依頼した。
こうして完成したのが「デボネアV」で、ヒュンダイの初代グレンジャーのもととなった。
コスト削減のためにセダンしか用意しておらず、セダン一つで法人向け、一般向けの両方を満たそうと、初代ソアラの仕様を取り入れたが、リアシートのタイヤハウスの出っ張りを排除しようとリアのオーバーハングを短くした結果、逆にフロントのオーバーハングが長くなり、不格好なスタイルとなってしまった。そのため、売れ行きは知名度の高いクラウンやセドリックに隠れ、めぼしいものではなかった。三菱もドイツの自動車チューナー・AMGのアドバイスを受けて開発した「デボネア・AMG」や、イギリスの高級ファッションブランドを内装に採用した「デボネア・アクアスキュータム」、内装をオーナー向けにした「エクシードシリーズ」など、一般層を意識した仕様を送り込んだものの、思い通りに売れなかった。
3代目
1992年に3代目に交代した。
税制規制に対応する形で1990年に発売されたディアマンテ/シグマが3ナンバー専用ボディであったため、3代目デボネアも大型化された。ホイールベースはマークⅡクラスでは最短の2745mm。
発売がバブル景気崩壊期であり、販売台数が伸びず、1999年をもって生産・販売を打ち切った。これにより35年の歴史に幕を閉じた。後継車はプラウディアとディグニティ。
総じて
近年こそカーマニアの再評価や、『マグマ大使』(実写版)・『大巨獣ガッパ』・『ゴジラ』(1984年・版/この頃では、設定的にも辛くなってきたが…)等といった特撮ものや『七人の刑事』・『ゴリラ警視庁捜査第8班』(ここでは2代目)等といった刑事アクションでの活躍(=DVD・BDでのソフト化やCS等の再放送)で辛うじて映像での印象も徐々に強くなっている昨今ではあるが、この車は、最後まで三菱グループ企業の重役向け専用車としてのショーファードリブン需要に支えられるのみとなってしまった。
ちなみにグレンジャーは韓国で国産高級車としての地位を不動のものとし、「模範タクシー」の鉄板車種となっているのだが、日本ではどうしてこうなった。
関連タグ
ヒュンダイ・グレンジャー:初代は2代目、2代目は3代目デボネアの現地生産車であった。ちなみに、デボネアの脱「「走るシーラカンス」達成には「ソウルオリンピックのVIP送迎の為に国産高級車が必要」というヒュンダイ側の事情が絡んだように、グレンジャーの存在が大きい。
クライスラー:これまたデボネアの脱「走るシーラカンス」達成に貢献した、アメリカの自動車会社。1986年当時、三菱自動車はここと業務・資本提携を行っており、ここ向けにV6エンジンを開発したことっで、次期デボネアにも搭載(流用)できるようになった。またクライスラー車も、上記(初代)の件を含め輸入販売した時期があった。