もしかして
- 原作・CLAMP「魔法騎士レイアース」の登場人物?→デボネア(レイアース)
- 原作・川口勇貴「レッドフード(漫画)」の登場人物?→デボネア・ダイアモンド
沿革
初代
(左端の絵は、試作段階のテストカー)
1964年にデビュー。1986年まで22年間デザインの変更なく製造され、「走るシーラカンス」の通称で有名になった(或いは揶揄すらされた)。
三菱自動車のフラッグシップであったことから三菱グループ各企業の重役専用車に使われたが、トヨタのクラウン、日産のセドリック、グロリアなどに比べると割高感があることからタクシー需要が見込まれず、非三菱系の企業に敬遠された。1970年代に入るとフェンダー上にフィンが立つ1950年代のアメリカ車風なデザインは古臭さが目立つようになり、不評に拍車がかかる形となった。
改良
1973年に三角窓の廃止やテールランプ形状変更、1976年のラジアルタイヤ採用、オプションのクーラーをヒーター組み込み型にするなど度々マイナーチェンジが行われたが、逆に言えばその程度にとどまった。
他社の場合、例えば1960~80年代に掛けてクラウンは概ね3~5年でフルモデルチェンジ、セドリックやグロリアも似たようなペースでフルモデルチェンジを行っていたので、マイナーチェンジばかりで一向に抜本的改良が行われなかったデボネアは一般的な消費者にとって選択肢に入れ辛いものであった。
エンジン
発売当時は直6・2リッターOHVの「KE64」を載せた小型車(5ナンバーサイズの乗用車)として登場。1960年代の高級車としては標準的なものだが、2000ccエンジン1本のみというラインナップは1970年代に入ると見劣りがするようになった。1970年に直6・2リッターOHCの「6G34」エンジンへ変更、1976年になって排気ガス浄化システム「MCA-JET」を搭載した直4・2.6リッターOHCの「G54B」を載せたモデルが追加されたが、他社の同クラスのエンジンは6気筒が主流だったのに対して、デボネアは生産設備の都合でシリンダを大きくとった4気筒とした。が、これは他社のような廉価版には小排気量の4気筒、上級モデルには大排気量の6気筒(8気筒)というような需要(或いは自動車業界の摂理)に沿ったラインナップと逆行するものであった。
結局、日を追うごとに商品としての相対的な魅力が低下する状態だったにもかかわらずフルモデルチェンジをさせてもらえないまま放置され、ランサーターボが1982年の1000湖ラリーで3位入賞を果たしたり世間では音楽CDが登場する(1982年)といった出来事があった頃にも細々と作られ続けた末に1986年にようやく生産終了となった。
1986年は音楽CDの出荷数がLP盤を抜いた年で、国鉄民営化(1987年)の前年である。
生産終了間際になって、古き良きアメリカ車風のデザインがにわかに人気を集め、結婚式場のブライダルカーなどの特装車ベースとして重宝された。生産終了後も、旧車ファンの間でローダウンや派手な塗装を行うなどの改造車のベースにもなっている。
一方、製造当時(末期)に掲載された『こち亀』の作中では、両津によって「走るシーラカンス 動く60年代の生き証人、現代の反逆児」「(三菱グループ各社が集まる)大手町以外では走っていないと思ったが…」などと文字通り珍獣扱いされた挙げ句、「早く逃げろ (オーナーが)どんな思想をもったやつかわからんぞ」という暴言すら吐かれている。両さんの暴言を差し置いても、希少で特異な存在であったことが窺える。
2代目(デボネアV)
1986年8月に登場。
前任の後継車を作るプロジェクトは計画を立てても頓挫するという繰り返しだった。1981年ごろには駆動方式をFFに決定したものの、V6エンジンは横置きしかなかった。そこにクライスラーから小型V6エンジン(※後の6G7x系エンジン)を採用すればよいのではと打診が入り、エンジンを年間45万台供給する契約を交わした。
また、当時三菱と提携していたヒョンデが1988年のソウルオリンピックまでに自国製の高級車が欲しいという事情もあった。ヒョンデはソウルオリンピックにおけるオフィシャルスポンサーだったが、VIP送迎車に使える高級車を作るノウハウがなかったため、ノックダウン方式前提の製造を三菱に依頼した。外装はヒョンデが、エンジン・パワートレイン・設計は三菱が担当した。
こうして完成したのが「デボネアV」で、ヒョンデの初代グレンジャーのもととなった。
グレンジャーはデボネアに設定のなかった4気筒2000ccエンジン+5速MTが選べたほか、全グレードにクルーズコントロールが装備され、ライトウォッシャーが搭載された。これはかつてヒョンデがノックダウン生産していたフォード・グラナダの後継車という側面を持っていたからである。
コスト削減のためにセダンしか用意しておらず、セダン一つで法人向け、一般向けの両方を満たそうと、初代ソアラの仕様を取り入れたが、リアシートのタイヤハウスの出っ張りを排除しようとリアのオーバーハングを短くした結果、逆にフロントのオーバーハングが長くなり、不格好なスタイルとなってしまった。そのため、売れ行きは知名度の高いクラウンやセドリックに隠れ、めぼしいものではなかった。三菱もドイツの自動車チューナー・AMGのアドバイスを受けて開発した「デボネア・AMG」や、イギリスの高級ファッションブランドを内装に採用した「デボネア・アクアスキュータム」、内装をオーナー向けにした「エクシードシリーズ」など、一般層を意識した仕様を送り込んだものの、思い通りに売れなかった。
一方で姉妹車のグレンジャーは当時の韓国で大ヒット車となった。
3代目
1992年に3代目に交代した。
税制規制に対応する形で1990年に発売されたディアマンテ/シグマが3ナンバー専用ボディであったため、3代目デボネアも大型化された。ホイールベースはマークⅡクラスでは最短の2745mm。
発売がバブル景気崩壊期であり、販売台数が伸びず、1999年をもって生産・販売を打ち切った。これにより35年の歴史に幕を閉じた。後継車はプラウディアとディグニティ。
総じて
近年こそカーマニアの再評価や、『マグマ大使』(実写版)・『大巨獣ガッパ』・『ゴジラ』(1984年・版/この頃では、設定的にも辛くなってきたが…)等といった特撮もの映画や『七人の刑事』・『ゴリラ・警視庁捜査第8班』(ここでは2代目)等といった刑事アクションドラマでの活躍(=DVD・BDでのソフト化やCS等の再放送)で辛うじて映像での印象も徐々に強くなっている昨今ではあるが、この車は、最後まで三菱グループ企業の重役向け専用車としてのショーファードリブン需要に支えられるのみとなってしまった。
ちなみにグレンジャーは韓国で国産高級車としての地位を不動のものとし、「模範タクシー」の鉄板車種となっているのだが、日本ではどうしてこうなった。
関連タグ
ヒュンダイ・グレンジャー:初代は2代目、2代目は3代目デボネアの現地生産車であった。ちなみに、デボネアの脱「「走るシーラカンス」達成には「ソウルオリンピックのVIP送迎の為に国産高級車が必要」というヒュンダイ側の事情が絡んだように、グレンジャーの存在が大きい。
クライスラー:これまたデボネアの脱「走るシーラカンス」達成に貢献した、アメリカの自動車会社。1986年当時、三菱自動車はここと業務・資本提携を行っており、ここ向けにV6エンジンを開発したことっで、次期デボネアにも搭載(流用)できるようになった。またクライスラー車も、上記(初代)の件を含め輸入販売した時期があった。