いすゞジェミニ
まちのゆうげきしゅ
概要
1974年11月に初代モデル(PF50/60型、PFD60型)の発売を開始した。
1963年から製造・販売が行われていたベレットは、基本設計が陳腐化していた。当時資本・業務提携していたアメリカの自動車メーカー・GMはベレットの生産継続を主張していたのに対し、いすゞはモデルチェンジが必要と主張した。そこでGMの小型世界戦略車である「T-Car」(ヨーロッパの子会社のオペル・カデットCなど)をベースに開発することになり、その結果生まれたのが初代ジェミニであった(この時点でもエアコンの開発・オプション設定をするなど日本向けの改良を行った)。なお認可上の問題等から、発売開始からしばらくは「ベレット・ジェミニ」と名乗っていた。
ボディータイプは4ドアセダンと2ドアクーペが設定されていた。
オーストラリア向けに「ホールデン・ジェミナイ」という名前で輸出されたことがあり、韓国向けにも「セハン・ジェミニ(後にデーウ・メプシ)」の車名でライセンス生産された。
1979年まではカデットCの日本版と言える存在だったが、カデットCが消滅(前輪駆動のカデットDに交代)したこともあってか独自の展開をすることになり、フロント周りのリニューアルと共に新開発の4FB1型ディーゼルエンジン搭載車と117クーペから引き継いだG180型DOHCエンジン搭載車(=ZZ/ダブルズィー)を設定した。
また117クーペの後継車となったピアッツァは、この車がベースとなった。
1985年に後述の2代目が登場したはずだが、一部車種(主にディーゼルエンジン搭載車とZZ-Rのセダンが中心〔この時点ではクーペは廃止〕)に関しては、なぜか1987年1月まで製造・販売が行われている。
そして三菱ランサーEX・ターボと共に、ジェミニZZはモデル末期ながらも「最後の白鳥の歌」を謳歌した。
1985年5月に、事実上の2代目であるFFジェミニ(JT150/600型)が発表された。ヨーロッパテイストにあふれた3ドアハッチバックと4ドアセダンが設定された。
『007』シリーズなどを手掛けたスタントマン・チームによるカースタントを多用したド派手なCMはパロディも出た程に大きな話題となった(キャッチコピーは「街の遊撃手」)。
ホット・バージョンとして旧西ドイツのイルムシャー社がチューニングした「イルムシャー」(メインイラストも参照)とイギリス・ロータス社がチューニングした「ハンドリングバイロータス」が存在した。
117クーペやピアッツァなどでいすゞと関係が深かったイタリアのインダストリアルデザイナーのジョルジェット・ジュジャーロ(ジウジアーロ)がデザインを手掛けたものの、いすゞ側がフロント部分をリデザインしたことでジュジャーロが難色を示し、ジュジャーロのデザインであることが伏せられた。
4年10ヶ月の間に、約75万台生産されたが、結果、いすゞの乗用車史上最大のホームラン作となった(初代ジェミニは約77万台生産されたが、生産期間は12年3ヶ月なので、それを考慮すること)。
1990年3月に3代目(JT151/641型)に交代。元々は4ドアセダンのみだったが、のちに3ドアハッチバックと2ドアクーペも追加された。
ニシボリック・サスペンションを採用し、1991-92年の全日本ラリーでは連続でクラス優勝に輝いた。
いすゞ社内でまとめられたデザインはGMの意向が強く影響し、これまで欧州車の味わいが売りだったいすゞ車においては異例のアメリカンなデザインとなった。
1990年には日本国内月販5千台に対し6602台と目標を超える受注となったものの品不足状態になり、アメリカ市場でも月販1万台を超えるなど販売が好調であるなど、新車効果が大きく作用した出足だったが長くは続かず、バブル景気も終わりを迎え、1991年にジェミニは販売不振に陥った。
それが1991年10月期におけるいすゞの大幅な経常赤字の原因となり、いすゞは次期ジェミニの開発延期を行うなど再建策を練ったものの、1992年10月期に大幅な経常赤字を出してしまい、同年12月、資金回収の見込みが立たない乗用車分野から撤退することを1992年度中期経営計画で決定。そして1993年7月、ジェミニの自社生産を打ち切った。
以後、ホンダドマーニのいすゞ版として販売されたものの、2000年9月にドマーニの製造・販売が打ち切られたことに伴い、それに合わせこのジェミニも廃止された。