二条家
にじょうけ
重要
藤原氏北家九条流。鎌倉時代、九条道家の二男二条良実が、二条富小路の邸宅を二条殿と称したのが家名の由来(二条殿は後に押小路烏丸殿を指すようになる)。家紋は二条藤。江戸時代の家禄は1708石。維新後、二条基弘が公爵に叙せられた。
足利将軍家および徳川将軍家から、代々偏諱を賜い、五摂家のなかでは、最も親幕府派とされる。また、史上最後の関白(二条斉敬)を出した家でもある。
鎌倉時代末期の元弘の変において後醍醐天皇の関白二条道平が倒幕関与の疑いを受けて鎌倉幕府より「中院禅閤(二条兼基)等子孫不可為家督」(『花園院宸記』正慶元年4月10日条)の処分を受けて二条家は一時断絶の危機に陥った(後醍醐天皇の復帰で無効となる)。続く、南北朝時代に一時分裂したが、北朝方二条良基(道平の子)のもとで勢力を取り戻した。特に明治以前の即位式において新天皇に灌頂を授ける即位灌頂の儀を掌る役目は室町時代以後二条家が独占していた。江戸時代、当時の摂家最大の実力者とされていた近衛基熙が本来は摂関家全てに即位灌頂の礼式が伝わっている事、先代当主の二条光平の早世で礼式が絶えたことを理由に二条家の独占を継続すべきではないと唱えた。これに対して霊元上皇は他家にも伝わっているにも関わらず二条家の独占になっているのは相応の理由があるからであるとして、たとえ二条家当主が現職の摂関・大臣でなくても「即位灌頂」のみは二条家当主が行う事、もし当主が幼くして二条家を継いだ場合には儀式の秘法を知るもう一人の存在である当代の天皇が責任をもって当主に伝授する事を裁定して公式に二条家の独占となった。
江戸時代の屋敷跡地は、京都御苑の区画外に位置していたため、他の4家の摂政関白家とは異なり公園とはなってはおらず、同志社女子大学の構内となっている。
歴代当主
代 | 当主 | 続柄 |
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1 | 二条良実 | 九条道家の次男 |
2 | 二条師忠 | 良実の三男 |
3 | 二条兼基 | 良実の男子 |
4 | 二条道平 | 兼基の男子 |
5 | 二条良基 | 道平の長男 |
6 | 二条師良 | 良基の長男 |
7 | 二条師嗣 | 良基の次男 |
8 | 二条満基 | 師嗣の男子 |
9 | 二条持基 | 師嗣の男子 |
10 | 二条持通 | 持基の男子 |
11 | 二条政嗣 | 持通の男子 |
12 | 二条尚基 | 政嗣の男子 |
13 | 二条尹房 | 尚基の男子 |
14 | 二条晴良 | 尹房の男子 |
15 | 二条昭実 | 晴良の男子 |
16 | 二条康道 | 九条幸家の長男、晴良の曾孫 |
17 | 二条光平 | 康道の男子 |
18 | 二条綱平 | 九条兼晴の男子 |
19 | 二条吉忠 | 綱平の男子 |
20 | 二条宗熙 | 吉忠の男子 |
21 | 二条宗基 | 九条幸教の男子 |
22 | 二条重良 | 宗基の男子 |
23 | 二条治孝 | 宗基の男子 |
24 | 二条斉通 | 治孝の長男 |
25 | 二条斉信 | 治孝の次男 |
26 | 二条斉敬 | 斉信の次男 |
27 | 二条基弘 | 九条尚忠の八男、治孝の孫 |
28 | 二条厚基 | 基弘の次男 |
29 | 二条弼基 | 二条正麿の三男、斉敬の孫 |
30 | 二条基敬 | 弼基の長男 |