生涯
輝宗に嫁ぐ
天文17年(1548年)、最上氏の第10代目当主・最上義守の娘として誕生。兄に最上義光がおり、長じてなお頻繁に書状のやり取りを交わしていたなど、兄妹仲は極めて良好であったと伝わっている。
義姫が生まれた頃、父・義守は長らく伊達氏に従属していたが、その伊達家中にて伊達稙宗・晴宗父子の間で抗争が発生(天文の乱)すると、義守は両陣営の間を上手く渡り歩くと共に、乱が終結する際にはその勝者である晴宗より勝利に等しい和睦条件を勝ち取って関係修復を図るなど、ようやく伊達からの独立を果たしつつあった。
その後も勢力の拡大を目指した義守であったが、永禄3年(1560年)に寒河江氏の守る寒河江城攻めに失敗すると、その目論見も暗礁に乗り上げる事となる。このように度重なる戦の家中で育った義姫は、平和を願う仁愛の人として強い意志を持った女性に育っていった。
前述した勢力拡大の失敗を受け、義守は後顧の憂いを断つべく伊達氏との関係を強化し、羽州平定に心血を注ぐべく方針を転換。これに伴って永禄7年(1564年)、17歳の義姫は父の意を受け両家の鎹となる使命を帯びて、晴宗の次男で次期当主・輝宗の正室として、山形から米沢へと輿入れした。輿入れの後は米沢城の東館に居住していた事から「お東の方」とも呼ばれるようになった。
梵天丸の誕生と天正最上の乱
輿入れより3年後の永禄10年(1567年)、第一子にして嫡男の梵天丸が誕生。その翌年には第二子の竺丸(1574年か1578年生まれとの説もあり)も誕生している。輝宗との間には政宗・小次郎兄弟のほかに、千子姫など二人の娘も設けているが、いずれも夭逝の憂き目に遭っている。
ところが元亀元年(1570年)、実家である最上氏では父・義守と、兄・義光の間で対立(その原因について、長らく義光の弟である義時を義守が後継者に指そうとした事に求められていたが、昨今の研究から義時の存在そのものも含めて否定的な見方が示されている)が表面化。一旦は重臣の仲裁もあって和解し、義光が11代目当主として就任するが、平穏な状態も長くは続かず天正2年(1574年)に両者間の対立が再燃すると、婚家である伊達氏も義光の勢力伸長を挫くべく、義守を支援する動きを見せた。
父子間の抗争が義光優位な形で収束した後も、最上と伊達との間の対立は依然として収まらず、天正6年(1578年)には夫・輝宗が上山満兼(義光の妹婿)を支援し、連合して最上領への侵攻を試みている。長きに亘る実父と実兄の争い、さらにそれに端を発した実家と婚家との争いに危機を感じた義姫は、意を決して戦場へ参じると輝宗の陣中に輿で割って入り、激情ともいえる決死の説得を敢行(柏木山の戦い)。これによって伊達軍も撤退し、以降輝宗は最上氏との抗争から、相馬氏など陸奥南部の勢力との抗争・和睦に舵を切る事となった。
輝宗の死と大崎の乱
天正12年(1584年)、長男の政宗が伊達氏の当主に就任。しかしそれから間もない天正13年(1585年)には夫・輝宗が二本松義継の手により非業の死を遂げた。深く悲しんだ義姫は出家して保春院と号した。
この輝宗の死は、義姫と政宗の親子仲にも深刻な影響を及ぼした。政宗が父からの影響を疎んじて輝宗を謀殺したのではないかという疑い、それに政宗による軍事行動の矛先が大崎氏など最上とも縁の深い諸勢力に向いた事は、義姫の政宗に対する不信感を醸成させる形となったのである。
天正16年(1588年)、大崎家中で発生した内紛鎮圧を名目に、政宗は大崎領への侵攻を開始するが、これに対し義姫の兄・義光も、政宗の動きを抑えるべく動きを見せた。予てより政宗の軍事行動に警戒感を覚えていた上、最上氏にとって本家筋に当たる大崎氏への介入は、義光にとっては到底看過出来るものではなかったのである。最上氏による援軍、さらに伊達領南方でも蘆名氏による侵攻が始まり、両面作戦を強いられた政宗は大崎勢に重臣の泉田重光を捕縛されるなど、苦戦を余儀なくされた。
最上・伊達間の抗争の再燃という事態を前にして、義姫も再び思い切った行動に打って出た。伊達・最上両軍の間に陣を張り、80日にも渡って双方に睨みを利かせ和睦を促したのである。兄・義光も豊臣秀吉が発布した惣無事令(大名間の私闘を禁じた法令)への違反を危惧して和睦には前向きであった事から、その意を受けて義姫は政宗の説得に当たり、遂には停戦へと漕ぎ着けている。
ちなみにこの時兄妹間で交わされた書状が、後世において義光の名前の読みを裏付ける重要な史料ともなった。
政宗毒殺未遂事件の謎
天正18年(1590年)、政宗の小田原参陣を間近に控えた中でひとつの事件が発生した。義姫による政宗毒殺の企てである。未遂に終わったとはいえ、この一件によって以前からの母子間の対立はここに頂点に達し、義姫が溺愛していた次男・小次郎の誅殺にも繋がったとされる。
しかしその一方で、小次郎の死に関しては様々な疑義や謎が残されており、実際に上記した事件が発生したかについても定かでないのが実情である(詳細は伊達小次郎の記事も参照)。
事実、この一件の後も首謀者であるはずの義姫は処断される事どころか、伊達家中に留まり母子間で親しく書状のやり取りが交わされていた事が明らかにされている。その一例として以下の和歌が現代にも伝わっている。
「あきかぜの たつ唐舟に 帆をあげて
君かえりこん 日のもとの空」
これは文禄2年(1593年)、文禄の役のために遠く朝鮮へ渡海していた政宗の元に見舞金と共に送ったものであり、息子の無事な帰国を望む義姫の心情が窺える。政宗もこれに感激して、進物の朝鮮木綿と共に返書をしたため母の元へ送っている。
山形出奔~最上氏改易
ところが文禄3年(1594年)、理由こそ不明であるが義姫は突如岩出山を出奔し、兄・義光を頼って山形に戻った。これと前後して秀次事件によって姪・駒姫が刑死、義光正室・大崎夫人も後を追って自刃するなど最上氏は不幸に見舞われ、政宗も事件に連座してあわや御家取り潰しの危機に瀕しているが、こうした状況下における義姫の動向は明らかではない。
慶長5年(1600年)の会津征伐に端を発し、最上・上杉両軍との間で発生した長谷堂城の戦いでは、窮地に陥った最上軍への救援を乞うべく、政宗の命により援軍に発った留守政景の陣へ催促の書状を出している。また戦後には政宗と政景に対し、援軍派遣に対する感謝の書状を送ってもいる。
その後も兄・義光の元にあった義姫であったが、慶長19年(1614年)に義光が死去し、その後を継いだ甥の家親(義光の次男、長男の義康は既に死亡していた)も元和3年(1617年)に早世すると、家親の嫡男で義姫の姪孫に当たる義俊の代になって家中では内紛が発生。年少の義俊とそれを補佐する家臣らに対し、一部の家臣らは山野辺義忠(義光の四男)を擁立して対立を深め、幕府による仲裁も不首尾に終わった事から、元和8年(1622年)に最上氏は遂に改易となった。
義姫も柱を失って変わり果てて行く最上家中の有様を嘆いていたと伝わっており、最上氏の改易によって行き場をなくすと政宗を頼って仙台城に迎えられ、同年7月16日(1623年8月13日)に75歳で死去するまで、当地にて余生を過ごした。前述した通り不仲であった時期もあったものの、仙台に迎えられた際に交わされた和歌の内容、さらにこの頃上洛していた政宗へ宛てた書状の内容などから、この頃既に母子間の仲も修復されていたものと見られている。
創作物における義姫
戦国大戦
「奥羽の鬼姫とは我の事ぞ!」
伊達家でVer2.0より参戦。CVは小清水亜美。1.5コストで4/6制魅の槍足軽。明らかにイラストが怖い。計略の「毒入りの膳」は範囲内の最も統率の高い敵武将の兵力を徐々に減らす妨害計略。特に槍足軽は攻城ラインから食らってしまえば即死レベルで減っていく。
信長の野望
武将風雲録のイベントから初登場。後のシリーズでは姫武将として育てるか否かのシステムが導入された為に武将として使用可能となった。(姫武将を選択した場合)彼女の場合は知略型の武将となる。
創造PKにて姫武将モードを「あり」にした場合のステータスは
統率 | 武勇 | 知略 | 政治 |
74 | 81 | 64 | 67 |
と何故か知略が16も下がった代わりに武勇と統率が70以上もあり、政治も67というステータスに強化されている。
戦国無双
武器:双剣 声:永島由子(厳密には新武将・妖艶の流用)
「私にも兄と同様、虎の血が流れていますよ…」(4Empiresでの特殊台詞)
登場しないが3Empiresでの義守の特殊台詞に娘という言葉が出てきたり、4の東北の章にて伊達政宗と最上義光が対峙した際に義光が政宗に対して「我が妹の子とは思えぬ言い草」と言っている事から一応名のみで出ている。
4Empiresにて姫武将の1人として登場し、姫武将で特殊台詞が存在する武将の1人となった。(その他にまつや淀殿など)
100万人の戦国無双ではオリジナルの武将として登場。棍棒を持っている。そして病んでる。
「……ふふ、政宗が永遠に私のものになってくれたらいいのにって いつも願ってるわよ」
殿といっしょ
大柄で政宗に似た顔立ちの女性。人を化かすことに命を賭ける兄・義光に命じられ輝宗に嫁ぐも、猛烈にお人好しで心優しい輝宗に対し、次第に心惹かれていくこととなり、最終的に義光をゾンザイに扱うようになっていく。
政宗に対しては厳しい態度を取ることも多いが、愛されたいという気持ちは強く、それ故にキレたり政宗の電波な行動にムキになって対抗したりと子供じみた戦いを繰り広げている。
なおカバー下おまけ漫画では彼女と愛姫の名前について、政宗いじりが大好きな直江兼続がネタにしている(「義」は上杉謙信、「愛」は兼続を表す漢字のため)。
政宗さまと景綱くん
釣り目ででこっぱち、派手な着物がトレードマークの爆乳美女。気が荒く、夫・輝宗の事をかなり尻に敷いているが、膝枕をしてあげたりするなど意外と夫婦仲は良い。腹を痛めて生んだ政宗を蔑ろに扱っており、小次郎を当主の座に着けようと暗躍している。